一般化

 

 

明日から遅番だから時間調整

 

 

動揺のあまりケッチャプ炒めを作った。バター、梅干し、ポンジュース。動揺は本当だけどケッチャプ炒めはたまたま。鶏肉見て最近ささみばかりだなぁと思い鶏むねにした。人参と玉ねぎと炒めていたら、なんとなくオムライスみたいなイメージが沸いただけ。

 

あとはすりごまを探していると、クラッシュアーモンドと合わせてあるものを見つけて、レンチンしたブロッコリーと和えた。味付けは塩とほんだしと醤油2垂らし。

 

 

動揺についてはまた後で。ぐーらたら寝ていたのが一気に覚めた。

 

ぐーたらしながらもちまちま数学を進める。グーグル先生のトップページってなにかAIが収集しているのかな。数学を調べたことはないはずだけど、数学の記事があって面白かった。「数学は言葉の学問」とのこと。

 

確かにその後の計算よりも前提にある定義が分かってないとどうしようもないなと。日常生活から全く離れた言葉を扱うから、頭がすっきりするような気がする。あと、それを自分で説明できるかということが求められている。余弦定理と正弦定理と加法定理をやっていたのだけど、余弦定理と正弦定理は三角形の性質の一般化で、加法定理は三角比の拡張みたいなことなのだろうなと。この前読んだ理学部の漫画集めようかな。

 

今読んでいる、「高校数学+α」と高校で習った三角比の定義が微妙に違うのはちと気になる。直角三角形があって、コサインはCだからこの辺分のあの辺みたいなものじゃなかったか。この本だと、半径rに対する円周上の座標xの比になっている。時間がある時に考えよう。

 

ただ、自分でちょっと分かったのが、比って量の一般化なのかなと。割り算が分数の形式で表わすことができて、それが比もなることの言語化。割り算は、割られる数の中に割る数がいくつあるか。6の中には3が2つあるみたいな。で、6と3の関係は、3を2倍したものが6になるという意味では2という比が媒介になることで6と3は等しくなるみたいな。これをもっと抽象化していくと比は数の大きさとは関係なくなる。まだ微妙だ。

 

こういう数学言語って、分からない人には全く分からないと思うけど。人の素朴な言葉もこういうことだと思っている。というのも、ある人が扱う単語の中にはその人のあらゆる経験とか思考とか無意識が収納されているから、広辞苑的定義からはずれている。このずれを意識しなくて良いのは、自分の素朴な語彙で人が扱う単語を捉えているから。自分の辞書の外にある単語はないものとして。

 

ほんとうに人に自分を伝えようとすれば、言葉では足りない。これは人を分かろうとするならばでも同じこと。という意味で僕は人の何を見ているのかがいまいち自覚されていない。

 

数学のすっきり感は、他の学問にも流用できそうで良き。確かに魅了される人が居るのも分かる。完璧に繋がっていて綺麗だもの。学問に特有な日常用語から離れた語彙はどの分野にもあるのだろうか。数学で言えば、任意は自由じゃないとかなんとか漫画で読んだ。法学で言えば、善意悪意は割と有名で、故意はわざとという意味ではないとか、当然は法律上の根拠は要らないとか諸々あるが。

 

芸術学関係だとどうだろう。舞台とか場とか境界とかまなざしとかが違うような気がするけど、哲学由来っぽいからなんとなく分かるが。

 

そういえば、黒猫シリーズの最新作はなんとなく今の世界への風刺感が強い。石を投げる対象があればなんでも良いとか、「中心の喪失」とか。中心の喪失は、なんというか、フロムさんの言及とも重なっていて、自我の目的を外に置くことなのかなという独断的解釈。

 

SNSも出てくる。この時代人を辿るならSNSだって。僕は自分でも辿れないけど。木を隠すなら森の中みたいな、これだけ膨大な文章を読んでまで僕を辿ろうとする人はいない。読んだところで分からないし。

 

SNSを眺めていて思うのだけど、何かを否定することで自己観が充足されていると思っている人が一定数居るみたい。これは肯定も同じようなことなのだけど、肯定も否定もその前の自分がするものであって、自分自体とは無関係ではなかろうかという話。要は、どういう人物に見られたいかに自分が置かれているだけ。

 

あと、人は少なくとも1人には愛されていないといけないというフレーズも見かけた。普通は自分であるべきだけど、外界から否定され続けたら難しいとのこと。でも、これって、他人からの評価に同調した方がまだマシという無自覚があるのではってちょっと思った。少なくともその場では1人ではないし。

 

まぁここで言われる愛の定義もよく分からないけど。少なくともフロムさんの意味では愛されるは受容とか肯定されるものではなくて、自分がそうするからそうなるとのことだし。

 

動揺の話。

 

好きな人の小説の感想文を書いたことに対して、何故か今になって当人紹介されるという時代。どうしたことだって。ずっと沈黙を貫いてきたのに。

 

まぁここの考察は置いておいて。

 

フロムさんの愛の定義は、自分を与えることだとされている。この「与える」は物質的なものも含まれているけど、中核は自分が培ってきた自分の思考とか知識とか諸々の人格を相手に提供することらしい。

 

はて、それいつもやってなかったっけ。

 

 

こういう意味で、対象問わず、自分を世界に共有するというのが生産性なのかなと思うと、この世界線への可能性もある。ただ、これが誰かにとって価値があるものだとしても、自分にはその価値感に共感はできないなという縛りがまだあり。

 

ただ、僕の文章で誰かが自分は1人ではないと思えるのであれば、それは良きことなのかもしれない。

 

おしまい。