思想を創った物語

 

 

 

いつだって終わりの理由を探しているのは、空っぽな自分を晒したくないのだろう。僕は誰かに自分を説明する言葉を持たない。

 

固形物を13時間食べていないのは厳密に言えばウソだ。朝起きてお弁当のご飯を詰める時におばあちゃん印の小梅干しを2個入れるのだけどついでに1粒食べている。完全な冷水シャワーは打ち止め。長風呂の火照った体を冷ますためのもので、もうそんなに温まらなくなった。

 

さておき。

 

今日はあまり頭が回らない日だった。月がやたらと近い。人よりも近いのではかと思うほどに。別に感傷とも違う、透明な感覚。

 

そういえば、本題の前に、昨日の半分のコップをどう捉えるかという話は、外界の事象はあくまで見たままとして捉えるべきだけど、「時間」についての感覚は完全に自分の積み重ねによると思った。

 

というのも、今日、2度寝をする前にあと3時間もある、3度寝をする前にあと1時間も、あと10分もとか思いつつ何度か寝て、アラーム1分前に起きて、2分ほど時間オーバーしてまどろんだ。

 

僕にとっての外的時間は空間と連動している。場所の移動というか箱。だから場所を移動することに特に意味を持たせられなくなっている。という感じで、平日の時間割。

 

朝礼の1時間前に起きて、お弁当を準備して冷蔵庫から無糖コーヒーと牛乳でカフェオレ作って、歯磨き、髭剃り、水とカフェオレ飲みながら2本煙草を吸い身支度までだいたい30分という単位時間がある。そこから歩いて20分くらいの徒歩通勤。

 

帰りはスーパーで買い物して家に着くまででだいたい30分あり、帰宅して1時間の間に読書、スーツにファブリーズ、またカフェオレを作って飲むとか、雑多な時間、その後ご飯タイムが20分くらいで、お風呂で1時間ののち、この日記の前にシャツ1枚にアイロンをかける。

 

これ、詰め詰めかと思うかもしれないけど1つ1つを箱で区切っているだけで習慣づけている訳でもなく、ただやっているだけ。ご飯も20分で区切ればその時間で何をするのかは任意だし、時間があるとかないとかいう感覚はなくなった。

 

無為に流れていく時間を有意に自分で区切るもの。人生とか途方もない時間で区切るのは今の僕には不可能。なにせ、休日という区切りでも途方にくれてしまう。これから思い付きでどこでも行けるじゃんって。

 

睡眠時間に対しては時間を区切っても睡眠時間に宛ててくれるかは肉体による。最近は随分と寝ているような気がするけど。

 

この時間感覚って完全に主観的なものだから、人にどういう風に時間が流れているのかって固有よなというのが見えるような気がする。どんな時間を過ごしてきたのか。

 

ちなみに、僕は全然完璧主義じゃないからルーティンが壊れても多分対応はできる。当面の工程は休日の無為な時間を少なくすること。どうせ時間は絶対的に流れるのだから、勝手に流れていましたではもったいない。いままでだいぶもったいないことをしてきたけど、これはもうどうしようもない。ある意味強欲とも言える。

 

あと、自分の時間をきちんとするって他人との時間もきちんとすることなのではと思ったりなんだり。機会はなくても問題はない。

 

そうやって通り過ぎられていくなかで無くならない存在はどうしようもないな。

 

やれやれ。

 

某ブログを読み返していたら、小さなころに読んだ物語が思想形成に寄与しているのでは、という問題提起があった。僕はどうだったっけと過去を発掘していた。

 

童話みたいなものはあまり読んでいないというか、響いてはいないような気がする。おそらく一通りは読んでいるはず。かちかち山、桃太郎、おむすびころりん、下切り雀、白雪姫、シンデレラ、はなさかじいさん、ヘンゼルとグレーテル、、、、。教訓めいた話には影響を受けていない。

  

で、僕に残っている物語は2つ。1つはテレビなのだけど、「ルドルフとイッパイアッテナ」という話。飼い猫のルドルフと、野良猫が出逢って、名前を聞いたら(いろんな人から色んな名前で呼ばれているから)いっぱいあってなと答えたことで、ルドルフにとってはそれが相手の猫の名前になったという話。

 

中身はほとんど覚えてないけど、やたらと熱心に見ていた気がする。僕が名前に頓着しない思想はここにあるかのかもと思うと、なかなか根を張っているような気がしないでもない。名前を変えることは変身願望の1種のような気もするけど、どちらかというと、名前と中身は連動しないという思想な気がする。相手自分の名前を存在意義にしているのも分かりつつ。なんだか悲しい結末だった気もしてきた。まだどこかで見られるのかな。

 

テレビって時間を受動的に箱詰めするものだったな。今は記録しておけば好きな時間で見られるのだろうけど、当時はその時間にテレビの前に居ないといけなかった。ビデオテープはあったけど、あえて録画するまでもないけど習慣として見るものについて。18時から始まる天才てれびくんとかいつも見てたな。その前の4時台にはアニメがあった。幽遊白書とか。地方のテレビ生活。

 

もう1つは、星座の本。もともとくたびれていたのか、僕がくたびれさせたのかは分からないけど、記憶に残っている本はカバーもないしテープで補強されているし、ぼろぼろだった。漫画で描かれたギリシャ神話で、どの話も何の教訓もないし、意味分からないけど読みまくっていた。ついでに宇宙の話もあったような気がする(定かではない)。

 

自分の星座って今の時代どういう扱いなのだろう。もう使われていない気がしないでもないけど。僕は牡羊座で、物語で覚えていたのは確か金の毛皮だったなということくらい。でも、別に金は好きではない。

 

グール先生に牡羊座と聞いてみたら、性格が出てきた。曰く「純粋さの体現者」だとか。いや分かる。細かく見ると、これによって他人と溝がとか、負荷がかかっている時ほど生き生きするとかなんとなく当たっているし外れている。

 

ともかく純粋さというは別に褒め言葉ではないということ。そんなことは求められていない。

 

他の星座の性格まで全部見てはいないけど、星座による性格の傾向性は血液型より信ぴょう性があるとふと思った。

 

これは別に占星術とかではなくて、人格形成がされる時期に集団生活をすることによる。4月生まれって年度の始まりだから他の月生まれの人より成長している訳で、1か月の時間でも成長に影響がある時期だと、同級生の中で1番年上になることによる性格形成はあるだろうなと。僕は成長期遅かったからそういうのはなかったけど、他の星座もそういう風に決まっているのかもと。

 

血液型も、全く影響がないかというと微妙なところ。僕はAB型なのだけど、AB型が二重人格だという流布は、A型とB型の傾向を持ち合わせているみたいな誤情報だとしても環境要因にはなる。今やおそらく相手によるから何重人格か分からないけど。

 

ただそれとは別に、血液って肉体を回るものだから、この類型で何か精神の傾向が変わることもありうるとは思う。人格形成において小数点以下の割合かもしれないけど、積み重なったら分からない。

 

占いはちっとも信じていないのだけど、突き詰めれば何かの影響はあるかもしれない。姓名判断だって、名は体を現わすみたいな意味でその人の人生に影響を及ぼす訳で。僕の名前は意味が曖昧で良かったな、形も好きだし。

 

今日の結論は、何が自分に影響を及ぼしているかどうかはブラックボックスだということ。

 

 

では、おしまい。