外部的価値観

 

 

 

起きてふと、そろそろ新しい靴があったら良いなという気分になった。アプリで検索したら一発でイメージに合うのが見つかり、そくぽち。ブラウンがぴったりだったけど、色味を見ていたらもっと明るくても面白いなとなり、カーキになった。

 

ついでにバッグも見てみたが、イメージが固まっていないためそくぽちとはならなかった。今使っているのは貰い物だし、ちゃんと自分が選んだ物を使おうかなと。両手を空けたいから小さ目のリュックみたいなのが良いな。色としては黒っぽい緑なイメージ。

 

色味をもっと気にしようと思う。身に着けるものにももう少し頓着する。別に誰かにどう見られるかとかではなく、自分で機能以上のものを感じられる装い。マフラーもそろそろ追加。赤系が良いなとか。

 

こういうの歴史上あんまり考えてこなかったけど、無難すぎるのも勿体ないとの心境の変化。別に自分にセンスがあるとは思わない(センスないないって言われ続けてきたし)けど、もっと好きなようにしよう。内側の拡張。どうせ人って人の装いは自分の価値観としてどうかとしか見てないし。グレーとネイビーは好き。

 

僕には確立した服装の正解のものさしがないから、人が好きで着ているという感が出ていればそれで良いと思う。

 

あとは、いつでも旅に行けるようにコロコロするやつ。どこ行くにも荷物少ないから要らないような気もするけど、旅っぽいじゃん。(あ、ステッカーの定位置見つけてしまった、追記)

 

 

と、本日の弁当タイムの時に歩きながら見上げたら、いつのまにか景色にカーキの配分が増えていた。あぁこの色を履いて歩くのだなって。

 

さておき。

 

まず関係ない昨日の日記の補足。「墓穴掘り」について書いていたのに、この読み方には言及してなかった。中身からすると「ぼけつ」ではなく「はかあな」と読むのだろうなと、それだけ。

 

本日の日記的日記としては、そろそろ紅葉を見に行きたくなってくるとか、冬の方が服は楽しいなとか思いつつ、副菜のアスパラちくわが最高に美味しい(現在)。

 

①アスパラを切って耐熱容器に入れます。②塩コショウを振り、バターを乗っけます。③ちくわを小さめに切り上に載せてレンチン2分。④すりごま+アーモンドをまぶしてシェイクするだけ。トータル5分か6分だけど、ほんと美味しい。しかし、このレシピで同じく美味しくできるかは限らない。素材と調味料の量は経験則で決めてくださいだし、僕も再現できると思っていない。

 

そういえば、徒然草の続きを買いに行くことをすっかり忘れてハイキューの最終巻を読みふけってしまった。スポーツ漫画好きなんだよなぁ。あだちさんが好きだけど、純粋なスポーツ漫画というより青春の機微みたいな要素が含まれるから、除外すると、ベイビーステップとツートップで好き。目的があって、それの為に注意深く積み上げるって僕にはできないから、キラキラしている。ちゃんとしている感じ。憧れるということはないけど、凄いなとは思う。

 

僕は無目的なのにちゃんとするということを行動規範として設定しているもので。

 

で、徒然草があった枠には、最初「ハムレット」が入ったのだけど、いや、うちには「マクベス」も読みかけで置いてあったはずと思いなおし、確か押し入れの中だったなと開けたらほんとにあった。両義性がテーマって面白い。冒頭がちょっとあの小説とも近いのか。背景というか細部が緻密なのだよな。良くわからないけど、美味しい。

 

帰り道、ふと、毎日同じことをしているなと思ったのだけど、同じことをしていても自分は毎日変化しているし、世界も変化していて、変化していないと思うのは自意識だけだろうなということを考えていた。同じ道のりでもこんなきれいな花あったのかとなるし、昨日ぎりぎり見えた生々しい月が今日は見えなかったし。

 

世界の情報も更新されているのに、一体何故自分が変わってないと思えるのか。

 

本題の前に。

 

新刊枠の「眠れない夜は体を脱いで」も読み終わり。体を脱ぐという感覚は分からなくもないし、この人の文体好きになったから、作者買いできる。でも、体を脱いだって体は体よねという気もする。僕は割とオタク方向にも掘っているから、ゲーム実況動画をよく見ているのだけど、自分の言葉を機械の言葉に載せて匿名化するという手法がある。でも、それで均一化されることはなくて、結局は中身がそれにどの言葉を載せるのかで面白さが変わるから、あんまり現実と変わらないような気がする。どうだろう。

 

真夜中のストーリーを読み終えて思ったのは、たぶん僕は現実で好きな人に出会ったとしても特に引っ掛かりはなかったのだろうなという世界線。面白そうな人だなとは思うかもしれないけど、何も情報がないからそこで終わる。これは逆も然りで、僕が言語化に拙い自分だったら、単に好きな人に興味を持ってますとしか表現できず、うへへ、そうじゃないんですってなったと思われる。運というか、絶妙なバランスというか。この感覚が共有されているかどうかは問題ではない。

 

まぁ、基本的に世界は運に支配されているに違いない。覆そうとするのであれば抵抗する以外にない。

 

 

やれやれ。

 

長年感じていた世界との齟齬は「生きるということ」が解明してくれるかもしれないというのが本題。僕の根本にかかわること。

 

「ある」と「持つ」の語彙は厳密に考えるのは難しい(難しいと思わない人はUターンしても良いと思う)。いろいろ書かれていたけど、これってもともとどちらも原初的な言葉ではないのだろうなって。

 

伝達が原初だとすれば、指示語が最初。あの山とかあの狩場でとかいう共通項の言葉。んで、石槍を誰かが持っていたとしても、所有の観念ではなく、機能としての言葉のはず。これを使ってマンモスを狩ることが大事であって、誰がが石槍を持っていることは問題にならない。

 

だとすれば、あるも持つも、自我が社会的に承認されて初めて発明された言葉でしかない。

 

これを前提として、この日記を読んでいる人は、自分はあるものなのか、自分はもっているものなのかどちらだろう。

 

僕が自分の文章を読んでいる人大丈夫かと思ってしまうのは、何かを通り過ぎた自分は前の自分と違ってしまうという自己観があるからで、どうやらこれがある様式の人らしい。知識を外付けで蓄えることに価値を感じるのが持つ様式の人で、これはきっと誰かより持っていることに価値がある。別にそういう価値観もあるから問題ないけど、なんか知識として自分を収集されるのも嫌なものだ。

 

過程の中でしか実在はないっていうのが仏教である様式らしく、まさに僕はもともとこれだった。だから違和感だったのだろうなと。

 

思い出は、外的な記録ではなく、掘り返すものだから、写真に残す意味も分からない。まぁ自分の時系列が確かにあったという証拠ということなのかもしれないけど、他の媒体に自分を委ねるってどうなのだろう。

 

そうそう。僕は好きな人だから現実に影響を受けるみたいな特別視はしていなくて、世界は等しく自分に影響を及ぼすという立ち位置。だから、自分だから影響を及ぼしたのだと思う人が居るとすれば自意識過剰である。

 

でも、影響を受けたからといって、自分が揺らいでいる訳でもない。もう少しでたどり着けそうな感じ。

 

では、僕の文章を読んで影響を受けている人って、おそらく好きな人が筆頭ではないかと思う。どれだけ好意を評されるより近い。だから大丈夫なのかって思うし、好き。

 

二日酔いは自分が動かないという枠から飛び出したし、その後の言葉はサービスなのかどうかは知らないけど目に毒だ。抱きしめたくなってしまうので。

 

僕は僕の言動に表層的に影響を受けて媚びる人は駄目なのだけど、それで実際に何かしたということができる人は好き。正味この僕は容易く誰かがトレースできるようには生きていない。

 

好きな人がいまだに好きであるのは、深層イメージで僕の懐で暖をとって丸まっている感じが時々あるところ。言葉の交信がなくてもやたらと可愛いのは、この関係でしかありえない。

 

これが幻想だって言って欲しい感もなくはない。天邪鬼。

 

 

では、おしまいでおやすみなさい。