るーる

 

 

 

積んでは崩すセルフ賽の河原のような人生。次積むときには新しい石が追加されているから終わらない。

 

それにしても、賽の河原のエピソードもよく分からないよな。最終的に救われるらしいけど、一体何でそもそも積まないといけないのか。親を苦しませて産ませたのに、すぐ亡くなることは罪だとかなんとか。これって、一体誰に何を伝えたいのだろう。

 

 

さておき。

 

現実的に人と接して分かることはたくさんある。が、別にその人が分かるというよりは、自分にとってのその人とか、相手にとっての僕という、とても限定されたもの。言語ベースの手紙みたいなやりとりでは、発話はあくまで当人の世界の範疇で非接触の領域。独り言に過ぎないというのはとてもよく分かる。ということは独り言に対する好意とはその人が独りの時の世界観を対象としている。

 

現実的接触となるとそういう自分の世界観だけで制御することはできなくて、本能というか、経験則的振る舞いはほぼ無意識で出てくる。どこまで対象に興味があるのか、対象を警戒しているのか、対象は人生の景色の一部でしかないのか。って、なんとなく観えるような。

 

もし、現実的に無意識的な振る舞いも自分に含められる人が居ればその人にはとても興味を持つ。僕の観測だと人って自分すらそれほど気にしていない。自分がどう評価されているかは気にしているかもしれないけど。

 

現実だと人のそういうところを注視してしまう。これが、人は自分の範囲でしか自分を観測できないということだけど、これが拡がることが人を救うことになるかは分からないから、大っぴらには言わない。マルクスとか著名な人たちはこうやって目を開くことが人を救うことだとして自説を展開しているみたいだけ、なんで自分に返ってこなかったのだろう。

 

僕は自分がどういう風に相手に無意識的に振る舞ったかという現象から相手に対する自分の気持ちを解釈する傾向がある。内心と現実とどちらを採用するのか。よくもまあ口が回っているなというときは、それほどでもないけど、共通語彙がなんとなく分かった感があり、まぁまぁ楽しんでいる。対面の先輩は鼻歌唄っていて可愛らしいし、顧客からヒアリングするときに、第一楽章からさっぱりだったらそれ以降は無理という心象風景も開示していただき楽しい。

 

こういうのが楽しいと思っていたら、お客さんでも敬語を廃する人が増えてきた。別に良いのだけど、なんだろうな。舐められているとも違う。

 

で、僕が好きな人をなんで好きなのかということを解釈してみる。僕は独り言的に心象イメージをいっぱい投げているし、警戒されていても仕方ないとは思っているから、現実的邂逅では恐れ多くて、ビクビクしている。発話もほとんどできない。

 

触れるのが恐れ多いのは、他人一般にある感覚だし、容易く触れてくるなよとも思っているから、綺麗だと思っていた手が直にも綺麗で触れられなかったのはまぁ分かる。人に直に触れるって禁忌感がある。コロナ禍の前から。どちらかというと自分が不浄であるという感覚の方が先にあるのかもしれない。触れることは触れられることだし。

 

だから、恋人さんとは手を繋げたのか。

 

そうこう考えたとき、好きな人からそういう無意識的振る舞いは観測できなかった。観測しないようにしたのかもしれないけど、全く分からない。なんか嬉しそうにしてくれるという印象はあったけど、これは、言語でも振る舞いでもない何であって、なんなのだ。

 

おそらく、他人のことがどうでも良いという前提があるのだろうな。どうでも良いというのは、自分は他人を所有することができないという意味。緊張して行っているのに、その後にリラックスしていた自分に気付く。

 

だから、たまたまの一致でしかないから、いい加減諦めたいなと感じているのだろうな。

 

でも、文章とは別にかわえぇのはしょうがない。

全然ずっと女の子であってもええのになって。この観念が無垢なのか無軌道なのか、若い肉体なのか、世界への無限の要求なのかは分からないけど、ほんとは要求に応えられることではないような。

 

 

 

生きるということの中に、或る本について、著者より理解している場合があるというフレーズがあって、笑った。確かに。

 

「持つ」と「ある」の話は、割と現代的な自己観に根深いのだろうなと思う。僕としては、本が自分と一致していたとしもその先のことを展開するから、「ある」に馴染んだ自分を崩す。

 

昨日の感覚で或る人に、貴方はある人なのに持つ様式の人に付き合っているのはなんでだろうと思うと投げたら、自分は関係なく好きな人には付き合うというぼーるが返ってきた。この分類の違い分かるんだなとか、その好きの原因はなんのだろうとかは言わない。そう決まっているものを話し合うことなんてできないし。

 

自分を生きるって最終的には宗教観みたいなところがある。行動規範というか、精神規範。自分はこういうものさしであると決めることは、自己充足ではなくて、未来へのショートカット。

 

僕はずっと自分の意見はないのかって言われてきていた。自分の中には自分がちゃんと居るけど、誰かに自分が自分であることを主張するものではない。外の自分は他人が勝手に決めれば良いし、その決められたことに対して何かを想うべくもなく。その勝手に決められた自分像のために素朴な時間を潰すのは良くない。

 

自分が決まっているという観念は、無神論者でも宗教的なものが根にある。もっと言えば、心理学とか経済学とか法学とか、定量的な人としての自分観。

 

僕は自分が正しいと思っている人に自分を開示する意義を感じないし、そこで場所取りしようとも思わない。

 

所有の観念も発明されたものだしな。資本主義的個人主義的宗教観。

 

「ある」と「持つ」の観念に流れていたのがここ何日かの日記だけど、本は思考を拡張するためにあるものだから、他の様式であっても良いのだろうなと。

 

本とは素朴に対話できる。

 

例えば、「なる」様式。人はだいたい寿命まで死なないし、時間はいくらでもあるとすれば、自分を未来に寄せてみる。この様式では今の積み重ねになる。

 

あと、「する」様式。これは現実特化。自分が現実的にしたことと相手からされたことを自分に収納する。割と現実的で良いと思う。

 

もう一つ考えたのが、「思う」様式。コギトエルゴのやつ。現実化しない内心の自分が自分で在るという核。

 

要は、自己観なぞ大したものではなくて、自分に何が見えるのかが世界の全て。ありとあらゆる自己観の文献を収集した上で自分を決めている人居ればそれは凄いことだけど、そんなこと普通の人にはできないから、経験則で収集した自己観を宗教とする。

 

自分を宗教としている人とはあんまり話せない。

 

あんまり越境すると戦争が起こるし。

 

 

だから、好きな人もさっさと去って欲しいのだろうな。

 

おやすみなさい。