他人観

 

 

今夜は鍋。

 

と、ここで画像を挿入するつもりだったのだけど、上手く取れなかったので省略。土鍋の大きさと具材の量が合っていない模様。人参の飾り切り(不格好)としいたけの鍋によくある切れ目(割と上手くいった)は良い感じに主観的だったのだけど。

 

鍋にすることは昨日実家から届いた荷物の中に白菜と大根とゆずが入っていたことで決まっていた。昆布だしの素と具材の出汁でゆずの果汁を絞ったゆずポン酢で食べる。美味い。朝ごはんは梅肉と塩昆布を足した雑炊で完璧。卵は買い忘れたけど、タンパク質は鍋で残った豆腐を細かくちぎればよろしい。

 

 

鍋=弁当ではなくて良いということで二連休有給消化だったのだけど、今日の面談で雇用切り替えまでに有給残り過ぎているということで、5連休になった。それでも11月、12月の仕事はスカスカ。消化しきれなくてすまんなぁと言われたけど、僕はほんと気にしてない。皆勤賞で良いことあったなとは思っているけど、全部消化していないとか別に良い。何かの交渉材料にしようとも思わない。無欲とかではなく、方向性が違うだけ。

 

 

まぁ流石に唐突な5連休はうきうきする。なんでもできるからなにを現実化しようか。歯医者の定期健診とか、散髪の時期だし、まだ読みたい本もあるし。欲でも義務でもない。

 

あと、なんだか大き目の無印で服とカバン選びをしたい衝動。物語がないものというより余計な装飾は要らなくてシンプルな色味があるものがあれば良いから。ウニクロも近いけど、なんか存在観があるよな。

 

真面目な話。

 

本日仕事中の暇に任せて、民法のモデルというか枠について考えていた。全然専門的ではないけど哲学感はある。これが現代社会の最低限の枠なのかと思うと、よくできているなと。

 

まず、権利・義務という観念を創設する。これは独裁国家が適当に国民を扱ったというよりはマシで、国家が保護すべき個人間の約束という文脈(契約)がある。あと、一定の事実にも権利義務を設定すると意味合いがある。損害賠償が一般的には分かりやすい、けど他にも諸々ある。相続もそうかな。

 

そうして、この権利義務の帰属主体として人の観念が新たに創出される。人であれば人権があるという憲法の文脈とも繋がる話だけど、この権利義務を十全に保持できるのが「人」ただ、素朴な人観はややずれていて、肉体が物理的にある限りになっている。人であれば良いけど、どこからどこまで人か。この資格が権利能力と呼ばれているもの。

 

で、人は自分の権利義務を自由に設定できるというという前提があるから、法律的に自分の行為がどういった意味があるのかと分かって行動できるという行為能力があったり、内心の前提として意思能力が設定されていたり。

 

あんまり専門的な定義は書いていないけど、さすが法律、現状の社会的な個人の感覚を反映しているなって。そうじゃないと思う人も一定数居るみたいだけど、それは当人が自分の世界でしか生きていないから。あくまでうすーい暫定的正しさを積み上げてきたのが法律。1つの英知ではある。物事を判断するバランサーとして。

 

ただ、正しいかと言われると、うーんとなる。そもそも僕は正しさを生きている指標に置いていないし。人って自分が正しいと思って何かをするのか。はて。正しさなんて他人事にしたら暴走するのは歴史が証明しているような。

 

正しいから誰を攻撃することが正当化されるなんてことは、自分が決めることではない。

 

 

はい。

 

人を食べる話。

 

この話、最後にシャワーを浴びている時にくっきり言語化されていたのだけど、タイプが追い付く気がしない。

 

そうそう、最初は、写真家の話の続きで、好きだった人に再会して、写真を撮りながら頭の中で食べるという話だった。生き物を咀嚼する描写レベルでいうと、オタマジャクシののど越しの本の方が凄かったけど。

 

ここでいう食べるって、自分とは異質なものを自己に取り入れたいという同一化の欲求なのだなと思った。僕も最中に甘噛みするの好きだったし(省略的性癖)。

 

そういえば、本の師匠も本を食べていた。ただ、本と自分を同化する感じでもなかったな。

 

異質なものを疑似的に食べる所作が、趣味的同化なのかもしれない。

 

これをもっと現実的に言うと、自分の素朴には一切影響させないのに対象を楽しむこと。なるほど、娯楽っぽい。自分の現実には一切関係ない飽食。

 

僕の見解だと、何かを食べるということは、その食べたものに影響されるのが当たり前だと思う。食べものを粗末にするなという知恵袋も、精神世界だと物理的な廃棄物が出てこないから、無駄骨。

 

一切自分に影響受けずに僕の日記を読める人も当然変人だけど、だったら何に影響受けているのだという気もする。

 

食べるを他人事にするから太るんだよな(暴言)。

 

僕の中ではだいたい等価だから、誰かによって自分の世界が拡がったということでもない。寄与度で人の価値を決めるのであれば、その人が自分に寄与しなくなったら優先順位が下がるのか、否。結果的に寄与されたというだけ。

 

自分を固定したがる傾向のことはフロムさんが言っていた。自分の過去とか経験則は自分が「持っていること」だから安心できる。分からなくもないけど、この安心って不安とセットだよな。

 

食べたからには影響を受けるに違いないという文脈だと、僕の文章に対してそれをした人って好きな人しか観測できない。いや、実際どうだったかは知らないしそう観えただけで、たまたまだったという可能性は拭えないけど、そういうこととも関係ない。

 

例えば、自分が変な雑草だと仮定して、雑草に対する叙述を図鑑の一種として、こういう草もあるのかと情報として取り入れるか、この雑草ってどういうところで生息しているのだろう、なんで生まれたのだろうと思うか。

 

要は、何を持って人とするかという自己ルールなんよね。

 

最終的に人は同質だってなるのは、ちゃんと自分を考えてた後のこと。ざっくり同年代とか同性かではない。Twitter見てるとマジでてきとーな同質観で生きているのだろうなと思う。なんでも良いけど、じゃあそれを取り去った自分はどこに在るのって。

 

僕は、自分が僕と一緒だと言ってくる人はほんと駄目だったのだと思い至る。

 

自分の経験則が他人にも適用できるという感覚が何故できあがるのだろう(いや、トリスが悪酔いになるのは観念ではない)。僕は僕ができていることを他人にもそうすれば良いとはならない。毎日日記を公開するためには、毎日飲まないといけないとかおかしいし。

 

好きな人を好きなのは、経験則で居ないのに許容してくれる感じ。歴代の恋人さん、誰かと比べているか、経験則で僕を判断しているかだけだった。

 

どうでも良いのに比べないと、どうでも良いから比べないは別次元の話。自分にとって気に入る言葉だけ求めているのであれば、僕の文章なぞ断捨離する対象。

 

では、おやすみなさい。