一方的

 

 

少し緩んできている。あんまり寝すぎるのも良くないな。夢が割と苛烈だった。パンパンパンと外の車の音に合わせて、天井に赤い色が付く。金縛りみたいな状態だから痛覚はないのだけど、あぁ、なんか終わりっぽいなと。

 

そうして、なんというか昨日のはたいそうな矛盾だけど、両立はするかなと思う。僕が人に影響を与えることを恐れていたのは、相対的自己価値の低さ。ここだと人にあまり自分の言葉を投げないようにする抑制が働く。今も割とそう。LINEスタンプとかなら問題なかったけど、意味がある言葉を投げるのであれば、ほんと大変。

 

でも、憤怒氏の要請によると、相対的な指標で自分を決めないということであり、自分の言葉で誰かが影響を受けるかどうかはどうでも良いから、思ったことを話せば良いとなる。これは最近のものだし、ずっと前やっていて全然違うって言われまくって来たからなかなか根が深い。

 

で、影響の中身で単なる刹那的喰い付きみたいなものではないその人の変化に寄与しているかもしれないとなると、相手から見た自分に価値を置かれているかもしれないという推測が成り立つ。普通の人は相手に歓心を持たれたいから相手に染まるという前提ありきだけど。

 

凄いとか、良いねって、本当に相手を慰撫しているようには見えないのだけど、世間の人は良くやるものだ。賛同する人が多い見解というのは民主主義多数決では価値あるものかもしれないけど、多数決の本質は議論を経た後に参加者が持ち合わせた見解より良いものが生まれるという建前だったような。

 

 

さておき。世間の話はどうでも良い。

 

僕の話。

 

ふと、自分がブラックコーヒーを飲めるようになったのはいつからだったかという疑問が生じて、過去を想起していた。フロムさんの「生きるということ」曰く、持つ様式の人は時間に縛られるけど、ある様式の人にとって過去は生き返らすものであっていまここに含まれるということらしい。とても良く分かる。

 

実家のドリンク事情を顧みると、お茶と、牛乳と、コーヒー牛乳は常にあった。コーヒーは母親が毎朝飲んでいたから、砂糖たっぷりで僕も飲む。ただ、猫舌だったから熱々は駄目だったな。実家がもともと茶色い砂糖を使っていたから、親戚とファミレスに行った時に角砂糖ではなく茶色い砂糖選んで馬鹿にされたことは覚えている。

 

あと、時々炭酸ジュースの1.5リットルがあったり、ヤクルトがあったりした。

 

なんかもう冷蔵庫とか家の質感含めて思い出されるやつ。スポーツドリンクは風邪を引いた時のものから、高校の部活で良く飲むものになった。当時はアクエリアスが好きだったな。だしか。

 

大学時代は、1人暮らしだけど料理も全然できなくて、お茶は飲んでいたか。その時知り合った友人が、朝にブラックコーヒーにウイスキーを垂らして眠気覚ましにするというのを聞いて、世の中にはそんな人も居るのかとなった。この人が好きなビールはハイネケン

 

その頃の僕は、チューハイとかカクテルばかり飲んでいて。ビールが飲めるようになったのも時系列ではまぁまぁ最近のことウイスキーより遅い。

 

コーヒーがブラックで飲めるようになった時期と、美味しくなった時期はずれていて、ビールが美味しくなったときと近い。ちなみに辛口カレーを食べられるようになったのはもっと最近。

 

味覚についは今持っている感覚を全自分っぽくするというか、自分の味覚の変化って時系列になかったのだろうか。まぁ、こんなのあえて語るものでもないのは分かるけど、視力については時系列ってよく語られるよな。

 

視覚の本によると、経年劣化で水晶体が濁るから、青空が綺麗に見えなくなってくるらしい。

 

 

ともあれ。

 

こうやって時系列を遡ったとき、僕は、色んな人から自己開示を聞いていたことが蘇った。なんだったのだろうな、アレ。というより、一過性の現象ではないのかもしれない。

 

1か月というのが分水嶺だった恋人枠を初めて越えた人は寂しさを充たすために僕を道具としたのだけど、自分の寂しさの根を話してくれた。別に僕は全然同情しなかったし、通常営業だった。だからこそ話せたのかもしれない。一番長かった人も割とこれだし、最後の恋人さんもそう。

 

自分がどう成り立ってきたのかをまぁまぁ語ってくれる。最後の友人もそうだった。

 

そういえばここでもいくつか例がある。

 

別に、僕は利用する気もないから気にならないけど、なんで僕に対して無警戒で居られるかって、僕が相手に対して無警戒だからでしかないと思う。

 

僕の自己語りは、収集した影をモデルにしているけど、姉に対する憎しみとかはほんとはない。姉の僕に対する劣等感は気になるけど、それほどエネルギーをかけえる対象ではない。

 

というところを考えると、まぁまぁいろんな人の本質を聞けたなとは思う。まぐわいより楽しかったはず。本当に大事なものは開示できないし。

 

僕は、自分を言語化できるほどには決めてないから、自分を推察するしかない。最長に付き合った人は、凄く欲していた。でも、自分の世界でしか生きていないのが駄目だった。

 

いや、もちろん人は自分の世界を生きるしかないけど。別れるとき泣かれたのを想い出した。これで終わりなんだよって言ってたなぁ。割と僕のせい感もあるからなんとも言えないけど、自分で浮気しといてそれはないはないわなって。

 

マジで地獄の言葉をいっぱい見た時系列。

 

好きだよと言ってくれながらチュープリを見つけてしまう自分よ。ずっと一緒だよという言葉付き。

 

もはや痛くもないけれど、言葉がほんとだというのは嘘だと思っているのはここから。なんで、言葉のただ口とか手を動かすことを当人の本当と想えるのだって。

 

一応付き合うけど、言葉と本質が一致できるのは教祖レベルなのでな。自分のことを書けるのであれば、きっと現実にも不自由はない。

 

言葉で自分が描写できるなんてほんとに自分を観測していれば無理なのに、他人のことは言葉で観測するのかいなという話。

 

好きな人の話しとくか。

 

 

僕がこの人のことが好きなのは、エピソードは虚構にできても思想は本当なのだろうなということ。作家さんだから、事実はどれだけも虚構にできる。

 

僕のこともネタにできるはずなのに全然それがない。ただまぐわいを求めるおっさんではないからかもしれないけど、思想が好きだし、僕が語る好きは代用できるものではない。

 

代用できないっていう観念はたやすく語られるけど、例えば、相手が自分のことを嫌いになても好きでいられるかとう問に対してはどうだろう。

 

好かれているから好きって、とても受動的じゃない?

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。