仮定的

 

 

なかなか良い5連休だった。頭の中(だけではないが)が面白かった。ありがとうございます。たぶん日記類は思考がとっ散らかっているけど。昨日のは誤字も酷かったな。

 

さて、髪を切りに歩いていると、住宅街の一角に草が生えっぱなしの土地がある。ススキの群生地を見つけた。丁度良くふわふわで、午後3時の逆光とも合っている。良いものを見た。帰りには銀杏の木々の個性について観察。染まり具合と茂り具合の違いは何処から来ているのか。茂り具合はまぁ個体差以外分からない。染まり具合は、日当たりの他に街灯の位置が影響しているのかもしれない。自転車屋さんの目の前にある銀杏が一番染まっている感じがしたところからの考察。ここから、ちゃんと実験して結果まで求めるのが研究者なのだろうな。僕はあまり正解が気にならない。

 

理容室では、素朴な感じの眼鏡の女性店員さんが新しく入っていた。素朴と見たのは、シャツインで、ベルトが余っていたし、眼鏡もスタンダードだったし。店長さんとナンバー2の人はもっとはっちゃけっているのだけど。新人さんと特に話した訳ではない。最後に髪を乾かしてもらっただけで、今日はこのまま帰るだけですか、はいそうです、いい天気ですよね(だからどこか行かないんですかという含意)、たしかに暖かいですよね、くらい。

 

とても好感が持てたのは、丁寧で優しい手つきで乾かしてくれたこと。鏡越しにぷっくりした小さな手だな、とか、右手の親指の付け根に大きなほくろがあるなと観察してしまい、なんとなくやめておこうと思って目を瞑った。ちなみに髪を洗う手つきで1番好きなのは、店長さんの奥さんらしき人。頭皮をがしがし洗ってくれる荒々しさが良い。

 

最後も挨拶してくれた。ただ、これは新人だからということも当然含まれており、馴れた後でないと本質は分からないよな。ともあれこのご時世に新人を雇用できるくらい繁盛しているようで良かった。今日の担当は店長さんで、アニメの話。年代が近くて、昔のゴールデンタイムのアニメって全然話が進まなかったなーとか。

 

ここまで若干箱っぽい。描写が細かくなる。

 

帰り道。冬用のコートでは暑いから予定を変更した。薄手の白ニット上にネイビーのパーカーであまりにちょうど良かったから、ベンチに座ってスマホで漫画を読んだ。津軽三味線がテーマの漫画で、25巻まで一気買いして、ベンチで2周目を回した。音楽も全くやったことない。中学生の時一瞬バンドブームで回りにはギターとかやっている人居たけど。それでも音楽の漫画も好き。才能の置き所みたいなところが良い。

 

という感じで考えると、僕の漫画の食指って自分がやったことあるかどうかではないのだな。スポーツで言えばやったことないバスケとかサッカーとかバレーでも美味しく読んでいたし、なんなら書道の漫画も好きだし。自分にあるとかないとかは関係ないらしい。

 

失われた時を求めて」で、主人公が読書をしていると祖母から遊んでいるみたいなことを言われたシーンがあり、だれかさんが書いていたことと重なって、僕はもともと本を読んでいた時期があったのではと思い至る。そんな話親からも聞いたことないし、だいたい漫画ばかり読んでいたなという記録しかないのだけど、これって漫画だったらちゃんと遊びに見えると学習したからではという疑念。

 

今となってはなんでも良いのだけど、外で遊ぶことが子供という規範の押し付けがあったような気がしないでもない。高校の時も母親は部活には必ず入れと言っていた。高校の部活は楽しかったから問題ないけど、なんでそれを言わないといけなかったのか。いまでも読みだしたら止まらない性質があるから、なんかすごい読んでいたのではないかというブラックボックス

 

ここから先はカオス。

 

信念の話。ちゃんとした信念は、自分の思考と経験に基づいた手応えとのこと。最後の友人は、こういうところを軸と読んでいたし、僕にもそういう軸はあるとの評価があったけど、僕はそういうのはあんまり考えていない。

 

手応えとか手触りはいつでも外からくる。という意味で、ほんとに1人で居るときの人格が素朴な自分であるとはならない。人は孤独だけど、関係からは逃れられないというか、関係の中にしか自分はない。もともと自分に人格があるっていう観念は虚構だと思われる。

 

色と同じで、何かから照らされて、ないしその影しか見えないのだから自意識が独立して存在しているはずがない。結果的には同じことなのだけど、自分を決められている人は、決められた経験則で自分を決めている。それに抗うのが思考だけど思考をこの方向で使っているような人はあまり見かけない。2年前くらいに1人見つけたか。

 

どうでも良いけど、新人さんのことを考えていたときに、「人たらし」と言われたことを想い出した。これ誰に言われたのだっけ。本の師匠だったか。僕はその人の痕跡とか過程を観て発するだけで、別にたらす意図はない。そういう風な視界は無自覚だったのは今なら分かる。だからあまり発してはいけない。僕の観るは特別視ではないし。

 

言葉が飛んだ。

 

そうそう、新刊枠の人を読み終えたのだけど、死の手触りというより希死念慮の手触りだった。近いのもなんとなく把握。帯に、救われる話だって書かれているのだけど、何が救われるのかが分からない。読者がという話なら、確かに膵臓よりはという感じだけど、僕は作者さんが救われて欲しいわって思ってしまった。

 

でも、小説ってこういう救われないなにかを昇華するものなのだろうか。救われてしまったら書くものがなくなる。それを一般読者が食べるってなんだかグロテスクだ。

 

僕としてはこの読後感はどんよりしてしまったのだけど、こういう変化が小説の醍醐味だから問題ない。

 

こういう、手触りというか現実化させる文章を書いてみたいという衝動。手始めに好きな人の為に物語を書いてみようと思っている。まだ僕の存在が嬉しければだけど。

 

 

では、変化していますように。

 

おやすみなさい。