黄泉平坂

 

 

なんの危惧感なのか。焦燥感でもなくてなんとか言語化しようとすると若干他責ちっくになってしまう。いったいどんな霊感なのか。別に固有である必要って。うーむ、届きそうで届かない思考。

 

ちゃんとしたお月様を見たのは何日ぶりだろう。下手したら10日以上経っているのでは。ナンプレを初めてやってみてどこまで早くできるようになるか追及していたら少し遅くなってしまった。なかなか面白い。数字でする詰将棋みたい。マインスイーパーみたいに初手が運ゲーじゃないのも良い。ついでにジグソーパズルのアプリも追加してみた。こちらは初めてではなく昔を思い出した。どの時系列でやっていたのか。たぶん小学生くらい。ラッセンの絵とかあったような。アプリだとてきとーに絵合わせすれば合ってしまうから、難易度が下がっている。ジグソーパズルが好きだったのも今さら思い出す。

 

昨日のは改行が多すぎると思った。枠がグリーになっていたな。

 

さておき。

 

僕は自分自身に対しては霊感で生きているけど、関係で言えば相手は合理性で生きていると思っている。酔いつぶれてしまうというのも一種の合理性。僕もやってたし、誰かと飲んだらまたやりそう。

 

この理というのは、効率性とか、目的への貫徹とかではなくて、その人が培ってきた理屈があるのだろうなということ。経済学的な視点が分かりやすいし、なんならベルグソンさんの時間と自由を持ち出しても良い。痛さが比較できるとか比べられないものでも平気で比べるし、リソースの観念が甘い。

 

これは常識と言い換えられる。僕は非常識野郎だから相手の常識がどこにあるのかということを無意識で探ってしまう。くれいじぃーなことはあんまり言わないように制御されている。

 

こういう合理性って、何を自分が選んできたかという話になる。このことわりは自覚できる経験則の結晶なんよね。おそらく。それが自信であったり他人に主張できたりする根拠になる。僕は割とこの根拠を見ている。

 

僕では思考様式とか行動様式とか分かれるけど、人の中ではもっと混沌としているのだろうな。良いとか悪いとかではなく、そういうものだろうという話。自分が行動しないことを何かのせいにして済ます思考とか、本当にしたいことを見失う。したいが現実化する見込みがあるから起こるのもおかしいし。

 

あぁそう、人の合理性って未知のことには働かない。たぶん。あと、経済学が完成しないのは、人は経済活動を機嫌とか感情とかの方が重くするときがままあるから。とすれば、私的な活動における合理性も当然そうなる。

 

たしかに、人と現実的に関係してないと自分の機嫌は観測できない。この起伏こそが生活だというのもとても分かる。誰かと居て満たされて弛緩する感じはなんとも言い難い快楽。ただこの快楽って人を入れ替えても成立するかもしれない。一意的な言葉で表現するならば。

 

ところで、フロムさんの生きるということもそろそろ終わるのだけど、面白い。次の人観みたいな文脈で、「人をだまさないがだまされない純粋だとは言えるが、単純とも言えない」とか、まさにそれっぽく。僕は割とこの生活でやれそうだけど、あえて他人を巻き込んで良いのかという危惧。他人にまでやれとは言えない。

 

そうそう、もう1つ。「実践がない洞察は無効だ」というのも実践している。明日紅葉を見にいくという言語化はすなわち明日それが起こるという予言。あらかじめさだめる予定だと狂ったら不調和だけど、予言は明日の自分に任せていても自分がそれをするだろうという根っこの話。できないことの言い訳は自分には要らない。

 

で、この予言がどこまで及ぼせるかということも実践しようと思っているけど、他人に対してそうなるというのは相手によりけり。僕がハグしたいと言ったということは、予言が現実化されうることですということ。ほんとうにそうしたいと思っているから言っているのであって、歓心を買うためではない。

 

もう1つところでの新刊枠。ショタコンみたいな話だった。生活に不自由がない主婦が少年を買って好き放題する。コントロールできる他人が欲しいという欲求は分からなくもない。支配による関係の安定って一番手っ取り早い。最中だけ支配するみたいなことはやっていた。照れられるのはかわえぇ。ただ、結局はちゃんと自分を生きている人のが良い。

 

ここで面白かったのは、女性は男性に好き放題されているという感覚があるのだろうなというところ。だから好き放題を発散するために勝っている対象を支配しようとする。これって男性縦社会でも言えて、筋力とか立場の優位さで下を支配する。これは暴力で支配できなくなると、知識とか(フォロワー)になる。

 

あぁ、そう。あるゲームで世界線のことを考えていた。モンスターが蔓延るようになるふぁたじーなのだけど、その先。世界がどうなっても変わらない自分の気持ちが本当だろうなと。例えば、この世界は人間より高次元の存在が気まぐれに作ったものでしかなかったです、あと1日で終わりますとなったとして。あんまり変わらない。

 

こういう全ての現実を廃する想定をしてみても残るものが自分だと思っている。

 

明日世界が滅ぶとなったとして滞りない感情。

割と現実にも近そう。今なら。素朴に考えて、戦争状態にある人の中にも自分が生き延びれば良いだけではなかっただろうし。

 

 

この想念には、やっぱりまともな人は付き合ってはいけないような気がする。

これが危惧なのかな。知らんけど。

 

では、おやすみなさい。