じゅようときょうきゅう

 

 

定期的にやってくるバイオリズムとしての不安感は、自分の無知さ故とんでもない勘違いをしているのではないかという想念。何も分からないあやふやな世界で生きているのは当たり前のことだけど。

 

今日のメインは胸肉を解凍しながら、酒、塩、胡椒、砂糖(柔らかくなると思う)で

下味をつけ、ほうれん草とクリームシチュー風に味付けしたもの。オリーブオイルで炒めて、バターを加え、牛乳とコンソメ顆粒で整える。あと納豆(オリーブオイル、わさび、塩)とサラダ。

 

さておき。

 

Wi-Fiは持っていったのに、何故かスマホは忘れて仕事に行く。お弁当時間に手持ち無沙汰だったから、ナンプレについて考えていた。まずは全部で何通りの組み合わせはいくつなのだろうといろいろ分析していた。でも、分からなくて、帰ってきてからの読書時間を費やし、なるべく綺麗な数字の組み合わせで1つ作った。

 

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エクセルで1つのセルが正方形になるように調整し、分かり易いように色分け。そのまま撮ったら反射で綺麗ではなかったため、ペイントにコピペして保存。おそらく1年前の自分では作成できなかった。

 

1つの正方形のブロックには1~9の数字が1つずつしか入らないということから、正方形の横軸で、123、456、789のブロックに便宜的に分ける。で、その正方形のブロックが9個あり、横軸には同じブロックがこないから、123のブロックは斜めに並ぶ。それを軸にして被らないように456と、789のブロックを振り分けたのが横の正方形三つの並び。縦の軸では、ブロックの並び方が問題になり、123のブロックでは231、312の組褪せしかなく、それらが9マスの縦の正方形に被らないように並ばなければならない。

 

ん、この話きっと面白くないな。個人的には数学的思考のこつこつ論理で、ここからそれぞれの組み合わせは何通りあるのかを考えていく過程はちゃんと結論に至るという意味で楽しい。数学は不純物がないから考えれば考えるほど正解に至れるという実感。最終的には、何マス埋まれば1通りになるのかというところだから、まだまだ遠い。

 

ただ、こんなのグーグル先生に聞けば一発で出てくると思う。調べればわかることを考える効用。知識の場合は知るか知らないかだけど、僕は別にナンプレの組み合わせが何通りあるのかを知識として知りたい訳ではなく、過程を自分の糧にする。

 

学問的な考え方と素朴な人間の考え方はきっと対応しているのだろうなと思う。学問の分類ってどうなのだっけ、自然科学、社会科学、人文学、あと何だ。まぁこれもどう分けるかの話であって、それぞれ細分化されているけど、素朴な人は諸々の学問的な思考法がブレンドされた考え方をしているから、ある個人がある個人によって把握されることって不可能だろうなという説。

 

僕個人のブレンドだと、統計とか傾向的な観測値を正しさとすることがとても苦手。こういう一般論化って、要は自分が観測したもののサンプルがいくつ集まれば未来というか未知がだいたい正しくなるかということだから、個人的な指標としては網が粗すぎる。もっと大きなもの、例えば政治とか経済とか個人で把握できない対象を扱うのであればこれを使うしかないだろうけど。

 

共通点で判断するとしても、何がどう共通なのかとなるとそこで選好が決まっているとも思えない。

 

人文学は全く読んだことがない。こともないか、高校の現代文の中に文学史があったはず。何々派とか何々主義とかまったくよく分からない分け方だったけど。これって研究者でなければ自分が読んだ本の文学史で良いような気がする。時代背景なんて歴史学のストーリーの領域だから、ほんとうにそうだったかなぞ分からん。という意味で言えば、人の言葉も本来であればその人の背景を知らないと意味を把握できない、つまり正答はない。

 

自分にとって正当な言葉なのかも自分のことが完全に把握できない以上、厳密ではないよなぁ。より1意には近いかもしれないけど。

 

そういえば、今の新刊枠の話。

 

婚約者に結婚式直前になんだか合わないっていう理由で別れられた女性が主人公。でも不思議と怨嗟みたいな味はない。そうして、ドリフターズリスト(漂流者の方)を書けって言われたところから物語が展開する。自分がしたいことを言語化して、それを現実化していくという意味では、このリストは予言書。綺麗になるとか、毎日鍋を使うとか。

 

 

そういうリストってありますか?

 

昔、自分が食べたものを言語化するだけで痩せるみたいな本があったような気がするけど、この言語としての可視化ってとてもエネルギーがある。(この何百と書いた日記の経験則でそんな気がする)

 

人生が1つの物語とすると、予言は既定路線の物語を書き換えるのかもしれない。

 

書き換えたなと思った物語。好きな人の日記で、いつか上海に行くことがあるのかなと書いあった数年後に実際に行っていたこと。割と自在な人なのだろうなという認識がある。お姫様になる必要がほんとうにあるのか、みたいな。

 

まぁ知らないことは知らないし、何か舞台外で不自由なことがあるのかもしれないけど。僕にだってどれだけ書いても舞台外はある。当たり前の話。

 

 

最後、ハグの話。

 

僕の熱を分析するに、たまたま性欲的な意味でも一致することで燃え上がっているということでもなく、お互いが生き延びて、性欲が無関係になった何十年後でもきっとハグしたいなと思ったから言っているような感じ。別に対象それぞれ今の僕にハグされてやぶさかでないということもなかろうなという冷めたというか、穏やかで良いな。

 

本質が対象になっているみたいな高尚なことは言わないけど、あんまり関係ないのは確か。

 

変な話、肉体に触れてなくても何か接しているような気はするし。

 

フロムさん曰く、自分を与えて分かち合う喜びが愛とか生きるとからしいけど、そういうことでもない。僕の文章読んでて大丈夫かとはいつも冷や冷やしている。

 

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。