悲観的筋

 

 

とはいえ当方、生き延びる算段がつかないのである。

 

 

二度寝前に自分の文章にもう少し価値を置くということを考えてみていた。自尊心の支えにするということでもなく、大事にするというか尊重するというか。ということは、、、と考えているうち、これは幸せで良いのかと変な充足感に至る。しかし、なんだか死亡フラグみたいだとの不安感。なんとも充足に弱い奴だ。

 

その後はなんだか重苦しかった。何か読み取らなくて良い信号を読みとっているような。皆なんでそんなに辛いのだろう。

 

 

さておき。どうでも良い話から。

 

本日は考察を基に、ナンプレを実践してみた。少しだけ早くなっている。全通りの数はきっと万単位になるからあまり実践では意味がなく、もっと条件を限定して考えるべきだ。左上に123の並んだと仮定すると、横軸、縦軸でそれぞれ12マスに限定されるとか、配置を縦横的に捉えると、自然と決まるとか、それを感覚的に捉えられるように。いったい何を目指しているか。

 

お弁当の時に思い付いた、やや悲観的な考えでいうと、考え事をしていると客観時間が早く過ぎる、すなわち寿命までのショートカットのため。改善とか施行とか終わりがないから、ある程度漫然と過ごした方が人生はつつがないのではという想起。人生は外にあると思っていられた方が自己観は保てる。それが良いのかどうかは当人次第だけど。

 

ネガティブというのは別に悪いことでもない。最悪を現実的に想定できるし。好きな人にどれだけ迷惑かけたのだろうとか、そんな筋ばかり浮かんでいた。まぁ実際なくもないからな。ごめんさいだわ。

 

閑話休題

 

フロムさんの「生きるということ」は、世界のシステムに不備があるから、整えようという壮大なことになっている。この中にベーシックインカムの構想が既にあったというのは面白い。最低限誰も飢えないような収入を補償することは、全体的な福祉で考えると今より安く済むのではないかとかなんとか。しようとすれば個人の価値観から変えないといけないし、これを変えたくない既得権者がいるから難しいだろうなぁ。

 

あと、生きるために働かなくて良くなったとき、人は何をしたいと思うのかも気になる。僕は可処分時間増えたら、もっと本を読んで文章を綴って、何処かに行って歩いて眺めて、ゆっくりお酒を飲むくらいかな。あれ、あんまり変わらんな。

 

フロムさんがいつの人かは知らないけど、人を愛するためには全生活的に研ぎ澄まさないといけないという言は倣おうと思っている。別に誰かを愛したいということでもなく(いや、この意味では世界を略)、それほど高尚なものなのだという意味で。

 

自分をちゃんと生きられないと誰かと生きることなんてできないだろうという価値観。徐々にだけど、間に合うのかしら。

 

 

ネガティブの最上級は、僕は特定の人と関わり続けない方がいいという観念だろうな。共依存のようなことになったこともあるし、なんだか人に対する忌避感が根っこにある。人を駄目にしてしまう経験則。駄目にする意味は別に僕が思い通りにするとかではなく、相手の要求に応えていくうちにもっともっとみたいなことにもなりうるし、だったら返してよということにもなるし、なんだか、相手の本質が剥き出しになってしまう。曝け出したところで良いことはないのに。

 

僕が相手に対して自分にとって都合が良い部分ではなく(都合が良いってなんぞや)、本質に興味があるから始まるから、最初は重なっていても最終的にはずれてしまう。

 

だから、生活ではなくて観測で良いのか。

 

という文脈でいうと、僕が欲しているのは僕に流されない人で、かつ

 

ややこしや。

 

 

まぁよくも飽きもせず、読んでくれているものだ。

 

 

新刊枠で、何が自分を支えてくれているのかという話があった。鍋で毎日料理することが支えになるのかとか、自分が弱いからり詰めていないと、保てないとか。

 

自分の支柱を外から持ってこようとするから変なことになるのではという感想。おそらく作者もそこまで執着していない味がする。外を支柱にできない人はずっとできないし、それでいい。

 

自分が何かをしているから自分であるとか、誰かの為になっているから自分であるという観念はあくまで外付けだから、外から肯定的なことが起きたときは嬉しいとかの言葉にしかならない。とても正直。

 

何をしてもしなくても自分は自分でしかない。

それを肯定化させるために群れるのが嫌なのだよな。

 

僕は僕に対して正直な人が好きなのかもしれない。僕に好意を持たれようとすることを一切しない人の方がフラットで居られる。現実世界では難しいとは思うが。

 

要は、自分の為に僕を遣わない、かつ、当人にも何かしらの効用があるという条件。

 

好きな人に恋文を送りつけることは僕にとってしか効用がなかったのだろうなというネガティブになっている。ナンプレ的思考ではそんなことはないと感じているのだけど、これってあくまで場合分けの一部でしかないよね、と。

 

全然近くはなかったというのが論理的はより正しい。

寂しいけど、これって、僕の充足感の為に好きな人を遣ってしまった感からすると、ほんと騒音の類だわ。

 

気を遣わなくても良いって、相手には気を遣われているかもしれないとせっとだし。

 

あと、場を保持するためのコストがないのもどうなのだろうなと思ったけど、もともと保持する効用がないなら要らんよな。ごめんなさい。

 

 

こうやって人を断捨離していく。

 

まぁ好きだと言ったことに対してなんにも現実的な応答はなかったし、僕が引っ張り過ぎただけだよな

 

では、幸せでありますように。