掘削

 

 

 

実家から届いた柿が2つ。フルーツとかスイーツを食べる日常がないからだんだんとやわらかくなっている。いっそ、ポタージュとかピューレとか、冒険してパスタソースに使ってみる、と想定してみてどう味付けしたら馴染むのかが全く分からない。マヨネーズとは合いそうな感じがするけど、コンソメとか塩とかどうか。

 

ともあれ。最終的に捨てるという判断もある。なんというか、食べなきゃならないという義務を重視するか、送って糧になっているという想いに向けるか。厳密にいえば無理やり口に入れて、どれだけ肉体の糧になるかを把握できている人もいないし。送り手からすると送った時点の食べられる圏内に入ったことで終わっている。

 

もったいないお化けは体調悪くなっても食べる必要があるほどもったいないのかということに帰結する。食べることで元気になるという観念も分かるけど、僕は人がもりもり食べている姿を見ても特に元気だなとは思わない。自分の必要量だけ食べれば良い。

 

僕は食が細いと時系列で毎回観測されているのだけど、それって見た目だけの話であって、食べたいときには食べるし、食べようとすれば食べられる。ただ、満腹は全然幸福ではないと知っているだけ。お酒を飲んでない小学生の時にオーストラリアに旅行に行って、中華料理店で調子に乗って食べ過ぎて吐いて体調不良になった。いま思えば、小中高のだいたい同じ時間に三食ご飯があることって慢性的胃もたれだった。

 

あんまり甘いものを食べないのは、贅沢品だと思っているから。誰かと過ごしているとまぁまぁ食べる。ハーゲンダッツ美味しいよね。いちおう血糖値ブースターとしてチョコレートを常備はしているけど、疾患がない(あるいは二日酔い)限り糖分が足りなくなる生活なんてありえないと思うのだけど、普通に清涼飲料水飲んでるもんなぁ。

 

素材の甘味を感じられるようになれば、当然穀物も甘いし、ブラックコーヒーとかビールにも甘味はある。焼酎は酔い具合の相性悪いからあまり飲まないけど、あれも甘いと思う。飲めない時期に父親が飲んでいたいいちこ味見してまずかったのは、アルコールに馴れていなかったから。いや、今も飲みたいとは思わないけど。よく煙草をやめるとご飯が美味しくなるというけど、やめなくても十分美味しいのだが。たぶんどこかしら影響はあるのだろうけど、食の抑制とかではない。

 

世間一般で健康とされる生活習慣には、清涼飲料水とか、どれだけ糖質を採るのかは網から外れている。これって何かしらの既得権益の思惑ではないかと推測できる。直接健康を害するものではないから大丈夫と思われている。もちろん他でバランスをとって居れば問題ないのだろうけど、バランスのとり方は教えてくれない。

 

甘味はほんとうに幸せなのか。

 

さておき。

 

マクベスを読み終えた。面白い演劇だったのだけど、だから何なのだと考える。例えば、魔女はこの物語においてどういう立ち位置なのか、女の股から生まれた者には命は奪えないという予言と、帝王切開で生まれたマグダフ(合っている?)が英雄になった符号性はいかに。

 

演劇論は全く知らない素朴な僕が解釈すると、なんだかすごく閉塞的な世界観だなという印象。誰しも自在に動いていない。いや、マクベスだけが自在だったという感じもする。という視点で見ると、魔女三人衆はマクベスの夢というか無意識であって、確かに主人公だ。

 

主人公が殺されることで物語が完成するというメタ的な視点が既に採り入れられている。シェイクスピアさんが当時の人に何を伝えたかったのかというのはもはや妄想の類になるけど、どの界隈でも、時代をワープしているようなものが残っている気がしないでもない。

 

その当時の観劇者になることを想像してこの言劇を見たあとの感想って、英雄になるもんではないなということっぽいのだけど、本当にこれが正解なのかなぁ。もっと深みで想像すると、演劇自体は映画みたいなもので、見ただけで民衆が盛り上がるものだけど、テキストを辿れる人だったら解釈が変わってくるから、むしろ、貴族層ないし為政者に訴えた物語であったのではという感じもある。訳者が当たりだったというのもある。あとがきほとんど読まないけどこの人の翻訳観好きっぽい。

 

いやはや、演劇のテキストって面白いな。おそらくどの演劇にもこういった源流は不可欠。あぁ、PIPEDREAMの系譜って、主人公が居なくてもなりたちうる演劇の施行なのかな。最初がこれで良かった。

 

いや、ほんと、解釈は正しいと思っていないから、これが作者と一致するはずがない。ただ、心理学界隈で、僕が勝手に考察していた文章をかかりつけのカウンセラーに見せた人が居て、あぁこの考え方はこの時系列の見識だなと言われたという経験があり。

 

ただを重ねると、又聞きのことはあんまり信用していないか、だからこれで自己肯定感が充足されることなはない。漫画の文章を書いたらもっと高尚な考察をしてくれと言われて、なにをアピールしたいのだとだ思った、時系列でどこだろう、10年前くらいかな。

 

関係者に凄い人が居るということを自分とできるという自己観は外付けだ。

 

 

この価値観はフロムさんがやや言っていて、外からきた目的で生きるのは苦しいよねって。

 

外を自分の価値の根拠にすると人に媚びたり要らない費やしたりが必要だし、相手から与えられたものに返さないと成り立たない。

 

この文脈に限定して好きな人を考察すると、僕に対してのブレは分からなくもなくなった。あくまで解釈であって断定ではない。

 

曰く、継続的に気にかけてくれる人が皆無であるという世界に、セックスも言葉も投げなくても気にかけてくれる人が現われた。飲みの席で奢ることができないと認識されているかは不明だけど、僕を単に飲みの席で奢ってくれそう人とは認識していない。そりゃそうだ。席より人格が知りたいのだから。ハグしたいっていうのも単なる女体ではなく、好きな人の人格に付属した肉体を触りたいのであって。当然誰でも良いということにはならない。

 

割り勘にしてくれる感じだったからこの観念はありきなのだけど、だったらどうして会ってくれないのか。ナンプレ的感覚で言えば、もしかしたら現実的に会ったら失望する懸念があるのかもとかという妄想。

 

このブレがまだ現実的可能性で好きで居られる証左。

 

もっと言えば、これで良いなら恋愛感情である必要もない。恋愛感情でもないのに独占欲がちらちら見えるのはまぁおいておく。

 

僕を独占したいのであれば、恋人にして、束縛すれば良いこと。

僕を束縛する意味がないという説も当然ある。

 

という文脈で、僕が好意を持っている人物と自己観の兼ね合いで言うと、今の僕と恋人になりえる人って、好きな人を除くと1人しか居ない。好きな人は僕のことを現実世界の関係として位置づけてくれないみたいだから、勝手に観れいるだけで良いのかなという感じ。

 

どれだけ観てくれていても、受動的でしか言葉を綴れないのであれば、あくまで僕は当人にとっては外なんだろうな。

 

僕は好きな人は内と捉えているけど、相手が僕を外捉えているなら、パートナーにはなれずに、あくまで気にかけるだけ、

 

当人にとってもそれが全てだと思うし。

 

ということは必然的に恋人候補はもう1人になる。

 

僕に対してなんにも判断しないということは、僕は要らんのだなと思っています。

 

まあだれにとっても僕は支えにはなりえないしなぁ。

 

では、おやすみなさい。