ちぐはぐ

 

 

 

世界とどうもかみ合わない面白い1日。

 

もう前残業がないから30分早く起きなくて良くて前日にアラームも準備したのに、もとのアラームが残っていた。これに気が付いたのが歯磨きと髭剃りと洗顔を終えてカフェオレと水を飲みながら着替え前にゆっくりするタイミング。仕事スイッチが入っているから寝直すわけにもいかない。

 

唐突に生まれたぽっかり空いた30分間。いくつか日記を読み返したり、誰かさんのところに遊びにいったり。ラテへのこだわりとは。ラテってスチームミルクが含まれていることだっけ。昔働いていたカフェ(喫茶店の方が適切)で聞いたような、聞いてないような。そして法律書もちょっと読む。時間を持て余すということができなくなってきている。なんなら自分の記録を遡上に載せて再点検ないし再構築もあるし。

 

遅番の出勤帯は朝の通勤、通学が収まってすがすがしい。ちょうど天気も良くて、光合成をしながら出勤。厳密には人間は二酸化炭素と光で酸素を放出するような世界への奉仕的な営みはできないけど、日光を浴びることでビタミンなんとかが体内に精製されるらしい。

 

このままお昼も暖かく過ごせるかと思ったら、曇天で暗かったしなんなら小雨もぱらぱらしている。寒々しく忙しくベンチで食べて、温かいブラックコーヒーを買ったつもりが、キンキンに冷えていた。たしかに押したよなと思ったけど、浮かれているから間違えたのかもしらない、まぁどっちでも良いかとなった。

 

ここで、自販機に対して何も感情が乱れないというのは、機械に期待していないからだろうという感想。システムの不備に当たることもあるだろうというくらい。

 

何を長々とだけど、感情の乱れってほとんど期待に起因しているなという具体例。僕は自分に期待していないから、自分に不備があっても誰かに迷惑をかけない限り、まぁそうだろうな、再現したくないことは再現しないようにしような、どうでも良いことはどうでも良いな、とする。

 

期待というと、なんというか希望の調味料が入ってくるからポジティブな語感があるけど、これって、もっと彫っていくと、当人が意識している世界への見込みというか当て勘みたいなことが中核だと思われる。職場で話しが通じないクライアントという共通ネタがある(先生は用いない)があるのだけど、自分の言葉は相手に通じるように整っているから伝わらないのはおかしいことなのだという当て勘の話なのだなと。自分が相手の語彙に合わせられなかったという発想ははなからない。

 

これって皮肉ではなく図太く生きていくためには必須の性質なのだと思う。僕は自分の語彙が世界の語彙だとは思えないし、通じたらこの人には通じたかとほっとするだけ。1つの例がまさにここ。

 

で、人に関わるときでも期待って肯定的に捉えられるのが一般的だけど、中核から考えると、人を観るという点では期待は不純物でしかない。こうなってくれたら良いなってことは、その外にある相手の可能性を廃しているし、廃しているかどうかは、ちょっと過敏な人であればすぐわかる。

 

期待とは箱であってその中でしか飛べない。

 

僕もどうでも良い人と関係している頃は、目をかけてくれることは尊いことなのだろうなと思ってなんとかやっていたけど、何か違うとなった。

 

ここでフロムさんが顕れる。愛の要素の中に尊重があったなぁと。あくまでこの本の中では関係しつつ相互に庇護しつつというニュアンスがあったけど、尊重とは、相手のあるがままを見ても関係することであって、相互に期待することではない。

 

僕が弛緩したのは、期待していないのにファンタジーが顕れたことであり、あんまり好きな人の物理とは関わりがない。つぶやきが増えたという観測値で、何かプライベートで良いことでもあったのかと思ったのはある。僕はプライベートでもパブリックでもないから、この関係では自在に過ごしてもらっているのではと発想すると、なんだかほっこりする。

 

日記を僕が観測できないところで書いていたとしても安心したのは、この下り。日記はあまり創造的な活動的ではないけど、生産的な活動であり、この生産的活動こそが当人が捉える生活ではないかなという解釈。文章が生産的な活動なのは、コピペしない限り自分を使って能動的に表現するしかないから。定型文の中に具体的な事象を当てはめるだけならなにも生産していないけど、好意的に見れば何を書くかを決める判断は能動的だから、まぁまぁ。

 

調味料のやつ、ほんとに僕向けであったとすると、今度のドラマトゥルクないし文学フリマに結晶化されるのかというファンタジー的な発想が生まれる。

 

人を期待しない視点で観る方が圧倒的に人を見ている。なんだか世界史と日本史を読んでいて、新刊枠のファンタジーも加えると、一般的に多数人をコントールするために必要だったものって飢餓なのだろうなと思う。原始的な世界では物理的な飢餓だけど、現代的には持ってないと貧しいのだという観念的飢餓。絶対的な話でも持っていないと自分を肯定できない。この観念はきっと素朴な自己観ではない。

 

で、これを突き詰めたとき、やっぱり自分が持っているのは自分しかなくて、あとはあってもなくてもどうでも良い。どうでも良いというと語弊があるかもしれないけど、必要ではなくて、あった方が嬉しいくらいの意味合い。

 

だから、必要だっていう語彙は虚像なんよね。

 

あ、1つ好きな人の日記のエピソード。文章を読む速度についてのこだわりの齟齬で、彼氏が自分の言を受け入れてくれたとのことだけど、実際たぶん受け入れてないし言葉ではなんとでも言えるという言葉観自体への齟齬もある。

 

1番大事だって言うことはとても簡単で、世界が自分を受け入れるべきだという女の子的な価値観はどう展開されたのだろうというのは気になるところだけど、受容されることが正しいというのは子供の感覚ではある。いや、経年劣化しただけの子供はいっぱいいるけど。

 

僕の時系列でも、小学生のとき、昆虫採集していて、父親が虫箱ならぬ虫小屋くらいのものを作ってくれて、持つことに執着していたのだけど、この何かを持っていることが自分であるという感覚自体が幼少期の観念なのだろうなと思った。

 

好きな人が面白いなと思うのは、この関係においてはまぁまぁ自在に過ごしているなと思うところ。別に何かに駆られて読む必要もないし、読んでいるという信号も発する必要もないのに、気まぐれに信号がある。僕以上に僕を読んでいるのではというファンタジー

 

毎日楽しいなぁ。

 

では、おやすみなさい。