収束

 

 

昨日はぼーっと考えを整理していた。本日は頭の中で他人に対して決して使わない語彙で罵詈雑言が飛び交っていてなんぞとなったが、何のことはない、憤怒氏が顕れている。宥めるつもりもない。

 

矛盾だらけの傲慢な構ってちゃんという評価について考えていた昨日。ひどい言葉だなと思ったのではなく、そう見えて然るべきだという意味。でも、あれだけ予防線を張ったにも関わらず、だったら先にという発言が無かったことに対するなんというか不毛感もセット。

 

さっさと月に還れよ馬鹿野郎。

 

もう少し細かくしておく。

 

矛盾と傲慢はセットで、文章を与えることと捉えながら自由であるというのは傲慢だとのこと。これって確かに「文章は書きたい人が勝手に見せたいように書いている」読み手の視点でも「巷に溢れた文章を勝手に選んで読む」という前提からすれば、勝手に書いたものを押し付けられているという傲慢という言葉が生まれる。もっと言えば読み手優位の価値観。読んでやっているというニュアンスがなければ、読ませているとして傲慢とは評価できない。もちろんそう見えるということは僕がそういう存在なのであって、前提が真であれば正しい評価。

 

構ってちゃんについても、読め、読んでいることを僕に知らせてほしい、僕は必要ですかという意味で観るのであれば当然そうなる。僕が自分を保つためにその人からの肯定を求めているというニュアンス。

 

ただ、憤怒氏が怒っているのはこの1つの見え方が正しいとして、一般的に適用できるとしても好きな人に対しても適用できるとしたところ。バカス。言葉で維持することが要件だったらそもそもここはないし、投げ槍にし過ぎ。バカス。

 

結果的には同じだけど、僕の前提の話。

 

まず、文章を与えることとするというのは、別に施しているとかそういう上から目線の意図ではなく、そもそも、僕が文章とは遍く与えられることと捉えているから。高尚な意味ではなく与えられたご飯であり焦点はそのご飯性に向いていて、書き手の読んで欲しいとかこういう風に自分を見せたいとか広く読ませたい、という意図とは切り離されている。意図とは切り離された自分が読める圏内に提供されているご飯という意味で見れば、僕の文章も独立した与えられるものであって、それを作るという意味で与えることとと書いた。ここは自分が見せたい像なんぞないというところとも通底しているのだけど、文章力不足がいかんせん。

 

あと、僕は文章を書くことを自由ではなく自在だと書いた気がするのだけど、もしかしたら自由とも表記したのかもしれない。与えてやることも与えてやらないことも選択できる自由とすれば確かに傲慢だけど、そもそも書くこともできるし書かないこともできるという作る前のことを前提とした自在だから、書きたいことを書いた後の話ではなくて前提がずれている。

 

で、構ってちゃんというのも、僕が心配なのは僕の文章が与えられているものとして在っても大丈夫か、セクハラ発言気持ち悪くないかという消極的なものがほとんど。ただ必要かという一般語用にしていた言葉については憤怒氏が怒っている。外界に必要なものなぞないって自分で書いてるだろうって。だから、ちゃんと自発的に読みたいと思っていますかというニュアンスが正しい。固有な僕を読みたいと思われている信号が分かるだけで良い。

 

で、自分のずれに自覚的だからちゃんと予防線は張ったのだけど、無自覚に読まれているとどうしようもない。継続には意図があると思われるけど意図はないとかいっぱい書いたのだけどなぁ。日記は広く読んでもらいたいものとも認識していないとか。いつかも、自分の感情を細分化するためには語彙が必要という本のフレーズを書いて、確かになぁと感想を述べたら貴方は語彙が拙い人を馬鹿にしていると評されたし。人を見下す暇なんてないのだけど。

 

話し合いとか説明は前提が共有された上にあるものだから、説得するような衝動は起こらない。なにせそこまで近くないし。

 

そうこうしても、やはり自分がおかしいのだろうなという相対的自己評価の下がり具合。憤怒氏はこの相対的自己評価にはなんとも言っていない。相手から見える像とかコントロールできないから、なるべく自分をよく相対評価してくれる人を交友関係に選ぶしかない。ただ、割と怒っているのは、語彙に流され過ぎているところ。言葉での繋がりは語彙のすり合わせでしかないけど、相手にすり合わせ過ぎよねって。不自由に振る舞っている。

 

ほんとうに不器用だ。自分の言葉を探すために交友関係を断捨離しないといけない。でも、別に断捨離したところで寂しくはないという人でなし。

 

 

要は、今回の憤怒氏の最大の怒りポイントは、好きな人に対してこの雑な評価が類推されるとしたところ。確かに、ちょっと気持ち悪いけど更新されているから読むか、くらいの受動性という前提がある可能性は否めないけど、文章は与えられるものであるという価値観は共通項な気がしないでもない。

 

これは具体的な経験則で、僕に対して言葉を求めないにも関わらず定期的に足跡があるとか、僕が個人的に送った演劇の感想文とかきっと大事にしてくれているだろうし。僕も大事にしている。

 

僕が求めていた言葉が僕に対する否定的な評価だったのは、あくまで一般論的な前提で、もう要らんでしょう、やめときましょうという文脈。

 

あと、憤怒氏は他にも怒っているみたい。

 

劇評の文章化が必要ないという言は投げ槍の嘘っぱち。ここまでの劇評も必要だから書いた訳ではないやろお前こら。はい、そうですすみません。書きたいから書いた。いや、テキストデータのために書いたという向きもある。劇評を広く読まれたいという意図が全然ないということであって、個人的に書きたいのは、三本を総括した感想。バカンスの感想と同じくのーとに書きたいな。PIPEDREAMのテキストデータはないから、恐竜の自分の文章データと記憶データでなんとかして、3つを通して作者(広義)は何を描きたかったのかに潜る。あくまで個人的な趣味で。

 

波さんがそれで嬉しいかなんて知らんしな。(良い意味で)

だからここで書くのは楽しいのか。少々へこんでいた気分が回復してしまう。何もないのに弛緩する効用。

 

もう1つは、お前甘え過ぎやろこらというところ。この2年くらい継続して自分の感情の投げっぱなし的な言葉を投げ続けている。好意だけならともかく昨日もそう。投げ槍感情ばかり。当時の恋人との喧嘩とかも投げたり泣いたりしている。

 

いや、もっとなんか支えるような王子様的な言葉書けよと(これ憤怒氏は言っていない)。

 

経験則からすれば僕はただのただの他人なのに、居ても良いという信号がある。

 

僕も別に誕生日が特定されることなんてどうでも良いし(教えてくれるのであれば覚える)、個人的な事務情報はほとんど関係ないし、この関係で大丈夫かという心配も無粋なのか。

 

(今日のマカロンの話、なんとなく繋がりがありそうに感じてしまう)

 

 

あぁそうだ、憤怒氏が怒っている最後。同じことを書くというのは言語と本心が一致していない。諦めた詐欺みたいになっているけど、全然諦められていないから言葉で結果を示そうとしている。

 

何を諦めていないのかというのは不明だけど、僕が心地良いと感じるくらいにこの場を気持ちよく思ってくれていればえぇな。

 

書きたいことが十全に書けているとは言わないけど、少なくとも書きたくないことを書かずにいられる。

 

要は、好きです、で収まる。

 

では、良い夢を。

 

おやすみなさい。