かたち

 

 

明日から5連休。日記と明日のためにいつも以上には飲まない。自制心とは呼ばないだろうけども。

 

帰り際、セミナーにつかうとかなんとかのアンケートに呼び止められた。いつまでかの自分なら書いてしまうところだったのだろうけど、本日は書く前に離脱できた。誘い文句の30秒で済むという言葉とは裏腹に、用紙をチラ見したら絶対そんな時間では済まないし、はいいいえで済まない質問ばかりだし、不誠実過ぎ。無言で立ち去る際、「だめ?」って言っていた。

 

おそらく、カモっぽく見えたのだろうなという推測。確かに受け身な感じはしているはず。でも、人は他人のことをそれほど尊重していないということが分かってしまうと、良さげな言葉とか意味がない。時間を奪うのだから。

 

なんとなく、ちゃんと自分になってきているなという感じがする。尊重がない関係は仕事だけで良い。そこには共通の縛りがある訳で。

 

 

さておき。

 

相も変わらず痕跡がある。外に見えている像と中身は全然違うのではないかという感じがあり、その変わらないところを観ようとしているからここがあるという説もあるけど、実際の現実でも想像上の現実でもない。そもそも現実感があまりない。

 

今朝ふと思い、文学フリマ京都の出展者のリストを調べた。やっぱりスケジュールが過密だから断念したのかという想像。僕としてはどちらでも良いというか、むしろ演劇の方に力を注いでいただく方が良い。体も大事にしてもらいたいし。

 

体といえば。

 

新刊枠のファンタジーで、人体は森に喩えられるという観念を医学と呪いのアプローチからそれぞれの専門家が捉えているみたいな下りがあり、確かになぁと思う。人は自分の体に住んでいる細菌のことも自分の免疫のことも知らないけど、自分としてざっくり把握している。感情の原因とかも分からない。こういう意味で捉えるなら、人が自分としているのは肉体的な自分でも精神的な自分でもなく、魂的なものなのではという感じがしないでもない。心身の情報が蓄積した媒体として。この意味の観念って大昔のホモサピエンスも持っていたと思う。

 

あと、からくりサーカスのアニメを見ていてちょっと体というか、人のかたちみたいなことを考えた。この物語、ヒロインは世代を越えても同じ容貌なんよね。ラスボスみたいな人は最初のヒロインの見てくれに惚れて、本人が亡くなった後でもその形に似せた人形(アンドロイドに近い)を作ったけど、そうじゃないとなり、ヒロインと血が繋がった人間と結ばれることを求める。

 

かたちに魂は宿るのかという命題になると芸術学とか哲学の範疇だけど、素朴な対人観点で見ると、人は人のことをかたちとして見ているだろうなという思索が起こる。特定の人が特定の人である証明って、何か他から分けられる形がないといけない。固有名詞とか属性とかなんでもいいし、なんなら、その人としての鋳型みたいなものでも良い。

 

たしかに人って、ある程度固まればその先に更新はないから類型として見ても良いと思う。でも、あくまでこれは傾向であって、人を人として尊重する見方ではない。つまり、こういう人は、人のことをナチュラルに尊重はしていないという感じがする。

 

某法律事務所に派遣の事務で働いていたとき、飲みに行った次の日、もっと僕の情報が開示されると思ったのにそんなことなかったって年下の上司が言っていたのだけど、なんだかぞっとした。その人の中の僕像を強固にするために僕の情報が欲されても僕は開示したくない。一方的に知りたい観念だけど、好きな人と違うのは、自分が優位であるために情報を収集するという根っこ。あの事務所の空気感はほんと合わなかった。仲良くしている風に見えてギスギスしている。今の職場は仲良くはないけどギスギスしていないから心地よい。

 

人を尊重するという観念はフロムさんからの導入だけど、僕の語彙に引き直すと、人をかたちとして捉えない、かつ、自分と近く捉えるだろうな。全然無関係の人であれば抽象的な観念としての人は尊重できる。同情に近いか、かわいそうとかそんなの。でも、関係する人だとどうしても自分にとってどうかというかたちが優位になる訳で。

 

そうして、ホモサピエンスの歴史を読んでいると、人って全然変わっていないのだなと思った。他の生物より高尚であるなんてことはほとんどない。共同の虚構を信じて協力できることで生産性が上がっただけ。個体間の親密性がチンパンジーより上位になったということはない。

 

言葉と所作だけが意味を持つのであれば、記号的な音声と同じ。

 

なんだか、しばらく自分に潜りたい衝動が起こる。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。