大きな物語か小さな物語か

 

 

 

休日でも朝ごはんなしで大丈夫そうだ。日々は一定のリズムを刻んで良い。問題はその中で何をするか。まだ余地があって楽しい。

 

認識では、人類の歴史上、狩猟生活から農耕生活になって食生活が安定したということだったけど、今読んでいる本だとむしろ狩猟生活の時の方が健康だったとのこと。その時のDNAが残っているから高カロリーの甘味がやめられないという説はなんとなく分からないでもない。古代の狩猟生活において甘味は熟した果実しかなくて保存も利かないから、他の動物に食べられる前にあるだけ食べてしまうという本能。

 

ただ、この狩猟生活って、参加者が全員高度の技能と体力を有しないといけないから間引きとか選別とかが往々にあっただろうなという話もある。現代狩猟民族でも赤ちゃんが体弱そうだと云々とか。道徳的な話は別にして、種の強化と存続で言えば合理的ではある。出産前診断とかもそうだろうし。

 

もう少し進めると、この時代の本能と今の文化にも何か共通項があるかもしれないけど、まだぼんやりしている。

 

戻ってきて。今日の昼ご飯は辛口レトルトカレー。2カ月に1回くらい食べたくなる。夜は買ってきたイカのお刺身と、レタスとブロッコリースプラウトのサラダに粉チーズとドレッシングを振りかけたもの。メインはちょっと寒かったから湯豆腐にした。具材はオレンジ白菜としめじとえのきで顆粒出汁をことことして、ポン酢で食べている。湯豆腐は父親が夜にこっそり作ってよく食べていたからなんとなく思い入れがある。今思えば、あと2年ほど待ってくれていればもう少し分かれたのかなと感じる。まぁ人は基本的に待ってくれないから仕方がない。

 

ふと思いついたのだけど、僕が人の自己表明的な自分像より、非言語的とか非表明的な部分に向いてしまうのは、父親が全く自己開示する人ではなかったからかもしれない。ほとんど感情的にはならなかったし、PTA会長とか押し付けられていても愚痴らなかったし、なんというか溜め込んだまま消えてしまったから。

 

悔しいというか、もっと知りたかったなというか。自分を誰かに知らせる、伝えられる人については、別に僕じゃなくても溜め込んだものは吐き出せるだろうから、他で良いよと思うのだけど。

 

僕も父親と似たような性質だから、もしかしたら父親は誰にも伝えなくて良いと思っていたのかもしれない。その割にはストレス満載ぽかったから違うのかもしれない。あるいは感情を投げっぱなしにされることが不公平だと考えていたのかもしれない。いろいろあるのだけど、何も分からない。もう少しエピソードが復活されるといいな。

 

さておき。

 

虚構を構築する能力を得たことによって人類が発展したというのは真理なのだろうな。人間は意図的に嘘がつける。そうだとしても、虚構が共同的な想像上の現実に昇格する条件とはなんだろう。法則と因果はあくまで個人が想像上の現実とする条件。

 

おそらく、皮膚感というか肉体的な世界の枠との一致を要する。かつて天災は神の怒りで、今は気象条件とかある程度は解明されているけど、当人の肉体的現実に影響を及ぼす作用の説明が変わっただけという感じがある。

 

呟き場の言葉でも人と会話していていも分かるけど、人はなんらかの物語に依拠して話している。現実世界の大枠は、最大公約数的な社会的な物語。民主主義とか自由主義とかそういうやつ。民主主義は、多数決ではなく、個人個人が意見を持ち寄ってもっと良い見解を構築しようといい思想だったような気がするけど、多数派とか少数派とか歪になっている。自由主義も、もともとは個人個人が勝手に振る舞うということではなく、国家から自由を制限されないということだったような。

 

ハムレットを読んでいて思った物語の階層性の話。

 

演劇を観る人は大きな物語の中に生きているということからすると、演劇は大きな物語と接続された小さな物語でないといけない。何故なら、人は自分が生きている物語と全く関係ない物語には移入できないから。だから作者は、移入できる範囲で虚構を構築する。

 

この前提で見たとき英雄の悲劇が民衆にとって娯楽でありえたというのもなんとなく分かる。今も総理大臣をディスって楽しんでいる人も居るし、大きな物語で語られる英雄譚という虚構に対する風刺になったというか。悲劇も喜劇もある意味同一軸なのかもしれない。

 

日本の古典的な演劇である歌舞伎とかはまだあんまり知らないけど、こういう意味での風刺的要素ってあるのかな。落語はちょっと知っているけど、もっと小さな物語だったような。

 

演劇論については全然知らないから何か高尚な論考ではなく、ただの思索。知らないものに対して知ろうとするためにできることは、自分に今ある要素から考えるしかない。演劇は虚構の1つの極致ではあろうな。

 

むしろ自分が知っていると思い込んでいることについても1度は素朴な自分の思考に通した方が良いとなっている。知るって、知識を持っているという財産じゃなくて、より知るための条件とか状態に過ぎないし、誰かと比べるものでもない。比べだしたら自分が知っていることで他人が知らないことより、他人が知っていて自分が知らない方が遥かに無限大なわけで。まず、他人の人生を知らないとか。

 

僕がこうやって考えていることを開示すると、考えすぎだってたしなめる人が現われていた時系列。この前の「気を遣い過ぎ」というのもそう。もっと気楽に生きれば良いとかてきとーに言われても、僕にとってはブレーキにしかならなかった。もっと突き詰めたいのに、ふっと没頭が途切れてしまう感じ。

 

貴方の考えは尊重するけど、自分のように考えるように押し付けないで欲しいって、かなり控え目な要求だと思うけど、そうはいかない大きな物語。物語性には、他人と共有される可能性が含まれているからしょうがないけども。

 

僕に物語はないというのはこういう意味だけど、信念はある。フロムさん曰く、信念を持っている人は外付けの基準だけど、信念であるとは世界への態度だとのこと。要は、常に現実的に継続していることに対して信念という言葉が宛てられるだけ。

 

本を読み続ける、考え続ける、自分を制御しようとし続ける、好きでい続けるとかそんなの。いや、最後のは信念というか勝手に続いているだけな感じだが。

 

流れで、僕が好きな人を好きで居られるのは、いつか僕をちっとも馬鹿にしないと評したのの続きで、僕の思考を制限しないところ。きっと、この許容性が現実的にも求心力を持ちうるのだろうな。対僕限定のはずもないし。

 

 

もう1つ、最小限の物語の話。関係は物語でありうるか。法則と因果、皮膚感で言えば当然そうなる。この共通な虚構があるからパートナー関係が構築される。否定的な意味ではない、念のため。ただ、1対1がパートナーであるという観念も最近のことみたいだから、これも含めて虚構ではある。

 

では、好きな人との虚構はどうなんだという話。

 

どうなんだろう?

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。