ご褒美

 

 

また書かなくても良いことを書く。しかし、書かなくても良いことを書く場としては残しておいても良いのか。日記ではない不定期更新用。

 

なんなのだろうな。もう更新しないということだったのに毎日痕跡があるのは。いずれ見ていたらまた更新するだろうという見込みなのか、それとも言語化=文体の更新がなくても存在として認識するということなのか。どちらでも良いというかどうでも良いことだ。

 

ただ、何か基準が違うような感じが否めず。ほどほどにと思ってしまうのがここにあるのかもしれない。共通の話題のネタにしていないのはなんとなく分かったから気楽ではあるが。

 

禁酒のブログをいくつか読んだ。メリットとして挙げられる、痩せるとか、ご飯が薄味で良くなるとかはほんとどうでもいいとして。でも酒豪のライターがやめた記事で飲んだことでコミュケーションが楽しくなることはない、なんなら周りもノンアルビール飲んでいるというはまぁそうだろうなとなる。一般論はともかく、なにより「素面の方が狂気」というフレーズが気に入った。

 

個人的な経験則として今となって思うと、僕は飲み会がちっとも楽しくなかったなということ。無理矢理楽しむ為に飲んでいた。よく、一緒に飲んでいる人にあるタイミングでスイッチが入ってよく喋るようになると言われていたのだけど、これこそハードルが下がるタイミングだったというだけ。別に自分の考えている見解が語れる訳でもないし人のことも聞けないから自暴自棄的自衛措置だったとも言えなくない。よく飲む、よくニコニコしているよく話すためには一定の酒量が必要だけど、別にそれが話したいことでもないという。皆自分のほんとは隠しているし。

 

かつてこのハードルの下降は崖に挟まれた谷みたいなイメージだった。酔うことでその崖を飛び越えて会話することができる、というか関わることができる。ただ、これで水準落として関わったところで何処にも行けない。

 

昨日寝る前に考えていたのは、海くらい広い水たまりの一角にダムがある。下が空くタイプではなく、上が下がるタイプ。地元の中学校の近くのは下から流れるタイプだった、というかダムってこういうものか。この下がって流れ出した水がハードルの下降により出てくる言葉。意志とか理性でコントロールされているものではない。そうして流された言葉もいずれ蒸発して雨になって違うかたちで戻るという循環的な構造。某村上さんの世界の終わりみたいだけど、創作者は自分を物語に化体して流すことができるのだろうな。

 

「素面の方が狂気」という話。久々に朝から没頭した。コーヒーとチョコと煙をおかずに朝10時前くらいから気付いたら15時くらいになっていて、空腹でお腹が痛くなって時間に気付く。ご飯も1合を梅干しと卵かけごはんで食べ。夕暮れ時にコンビニ行くときもついでにごみを出そうと思って外に出たけど、考え事でぼーっとしていたらごみ袋持ったままコンビニに向かっていた。別に試験まであと数日という訳でもなく何か納期があるわけでもないのにこうなる。狂気。

 

こう考えると、僕が毎日書いてきたことなぞ僕の一部にも満たない。酔った時の人格も然り。酔った時の方が本質に近いし確かにそれば正しいけど、だからと言ってすべてでもない。そういえば僕は泥酔するとスキマに入りたくなっていたな。安心するのかなんなのか。

 

なんというか、ほんとうの意味で人に語りたいとか話し合いたいとかの欲望がない。たぶん好きな人対しても変わらず。好きな人とはぼーっとするのが楽しそう。話を聞きたいとかでもないな。

 

これだけ書いているということは何か伝えたいことがあるのだろうと思われるからどんどん生息地が狭くなったのだけど、それはそれで良い。伝えたいことがある人は学問とか自分から離れたものでない限り言語では無くて他のものだと思うのだけど。

 

そういえば、今回の制作記録。他人事ではなく記録者としての視点なのだろうな。自分が発した見解がところどころ抜けているのは考えているのか恥ずかしいのかは読み取れない。(たぶん後者では)

 

ついでに、製作期間が長くなっているのは人が増えたからか、最後だから力を入れるということなのか、あぁ、「ひたむきな星屑」の店長さん訳の人も参加しているのかとか、大きな戦争と同時に小さな諍いも扱うのかと、インタビューを読んで考察し。

 

ただ、これってたまたま言語化されているだけで、素面の僕はもっと無駄に全世界的に考えまくっている。だから気を遣うとか考えすぎとかと評されるのは現実化の一角でしかない。もちろん考えることで何処かに進めるとか高尚になるという話ではなく、僕にとって生きるということが考えることと同値であるだけ。

 

好きな人好きである次元とは別枠だけど、ちゃんと読んでくれてそうというところに関係の継続がある。嬉しいことだけど、なんとなく「こころ」の先生の気分が分からなくもない。

 

 

争い論。

 

争いって、色んな言い方がある。戦争、紛争、闘争、裁判、喧嘩、諍い諸々。

 

おそらく人間同士の争いが扱われるのだろうな。演劇は人間が見るのだから当たり前だけど。僕の中では争いって同一の前提条件を何処に置くのかという共通項がないと生まれないものだとしている。

 

勝ち負けがインストールされているという感覚も確かになと思ったのだけど、何故勝たないといけないと思うのかと考えるとなかなか根深い。おそらくアイデンティティの領分だとされるのだけど、フロムさんの言だと、この勝たなきゃ認められないという観念は、自我を物として扱っているとのこと。物を持つということは確かに個体として優れているという証左に見えるし、誰かに勝っている自分を持っているという感覚も分からなくはない。

 

個人的なところだと、僕は勝つことがほんと苦手だった。結果的に勝ってないから勝てなかったでも良いのだけど、最初に思ったのはテストで、次に生生しかったのが高校の部活。硬式テニスで、先輩とレギュラー入れ替え戦をしていて、このままでは勝ってしまうと思ったらあれよあれよとミスをしてしまう。この自分の精神性をもっと早く把握していたらもっとうまくできたかもしれないけど、どうにも譲ってしまうところがある。

 

こういう意味の勝ち負けってある意味椅子取りゲームみたいなところがなくもない。オリンピックが好きなのもそうなのかも。自分の場所が取られないという安心感の上で他人同士が競う感じ。

 

ルールに基づいた争いで言えば、戦争だって戦時国際法で決められている国取りゲームみたいなところはある。もちろん実際人は亡くなるからもっと遺憾に思うべきだという見解もあるけど、いや、でもボクシングとか野球の事故とか、山登りでも人は死ぬけどどう違うのだとなる。

 

で、もっと言うと、人間が地球にとってのガンだという話からすると、人間対他の動物とか環境みたいな戦争がある訳で。ホモサピエンス全史読んでいると、人間が進出した土地の動物が軒並み絶滅したという史実があるようで、人間は他の動物に勝ってきたのだろうなというところと、DNAレベルで勝たなきゃいけないという欲求があるのかもしれないとか思った。今絶滅危惧種である動物だって人間が乱獲したり、環境を克服した副作用だったりするだろうし。

 

こんな話は飲みの席もできないから、ここはここだけの仮想空間。

 

 

あと、インタビューで争いは人類にって必要なもの? っていうフレーズがあったけど、個人的には争わない方が効率的だと思う。感情を伝えるために争うしかないってどんだけ理性がないのだし、相手の人格をちゃんと見て尊重していれば、別に諍いが無く穏当に妥協で済ませることもできるはず。

 

この、妥協で済まないというのが、人間間の諍いだと思う。

 

もっと考えると、ここには、善悪とか正義と不正義みたいな感覚がある。おそらく宗教観とも繋がって居るし、この観念は考えなくてもアイデンティティを証明してくれる発明。自分が正しいのだから相手がそれに従うべきというやつ。

 

僕は人の個人的な見解は大好物だけど、これが発明品に依拠されているとげんなりしてしまう。

 

最近よく見ているのが、強姦罪(今は強制性交罪等だけど)の、性的同意年齢の引き上げの話。犯罪と刑罰も一種の戦争だけど、これを国家対犯罪者としている人が多い。実際の被害者を度外視して何がなんでも犯罪者を罰することが正義だみたいな、自分が被疑者とされることを全然想定していない感じ。国家に判断を投げたらどれだけ人の自由が死ぬかってあんまり意識されていない。

 

どうやら、論拠としては子供は判断能力が不十分だからもっと保護すべきということだけど、これって大人は判断能力が十全であるという思想と裏返しで、何をもって判断能力があるとしているのだろうって思う。性的パートナーを選べる自由とかではなく、子供にそういうのは早いっていう感覚にしか見えないのだけど。

 

性の非公然性も別に自明な理でもないし、宗教チックではあることを全く考慮できない大人が、自分の方が子供より判断能力があると言い切るところがなんともげんなり。経済学で言わなくも、人が何かを判断するとき、情報は不十分でしかない。

 

僕が年齢的に子供だった時の経験からすると、理由を説明しなくても従わせる権威があった方がコントロールするのが楽だという説がある。システムについてなんでそうなっているのかって説明してくれた大人いないし。

 

こういうところを見ていると、やはり言葉の意味ではなく、自分の思想の伝播がしたいのだろうなと思ってしまう。

 

あれ、じゃあなんで僕はこうなったのだ。自分で調べるではなく自分で考える。

 

僕は自分の文章は文体ないし存在とされても良いけど、全部ではないし、伝えたい訳でもない。好きな人は自分の文章を広く見せたい人なのに、僕があんまり見せたくない感覚も受容していて不思議だ。

 

独占なのか占有なのかも不明だけど、個人的には僕が書いた数百の日記は全部あげてもいいと思っています。というかもうあげているか。

 

では。

 

 

おやすみなさい。