メリーメリー

 

 

 

皆ケーキを食べつつ楽しく過ごしているといいなと祈りながら今日も今日とて。目論見としては今日も素面で「こころ」が捗る予定だったのだけど。理由を考えるのはやめておこう。

 

「こころ」の読了率は42%。青空文庫は便利だ。書いていた時間はその分読む時間とかぼーっとする時間に回る。切り替えがもう少しタイムラグなく行われると良い。セミオートではなくマニュアルな感じがある。

 

しかし夏目さんの文章はとても綺麗だ。言葉は古臭いのかもしれないけど、料簡とか、諷すとか、悲酸とか、なんだかとても馴染む。あと常識というか思想みたいな感覚の動きはとても緩慢であまり進歩はしていないのだろうなという感じ。人は平素では善人だけど云々とか、費やした分が返ってくるという子育て観とか諸々。新しいと思っていることは何かの繰り返しでしかないのかもな。

 

昨日寝る間際の方がよほど言語は回っていた。どうしたことだろう。書けないことであるという無意識説。確かに、どれだけ酔っても書かないだろう解釈はある。なんというか自分にとって都合が良すぎないかというブレーキがある訳で、何も利害がなければ在りうることだけど、だとすればやはり言語化はしない。素面でも好きですというメッセージを送ろうという試みは別にここで書いても問題ないことだけど、素面になるとそこまで水門が下がらない。あえてそれを読んでもらう意味があるのかとブレーキの方が強い。ほんとにできるとすれば実際会ったときに溢れたときくらい。経験則上溢れたことはほとんどない。理性的に過ごしているため。

 

思考に手と頭が追い付いてないな。

 

ちょっとゆっくりしよう。

 

個人的な「いま」、宗教とか神秘主義(今風に言うとスピリチュアル)には世界というか人間の秘密があるのかもしれないと思っている。それを信じるというよりはあくまで、そういった主張のテクストを解体して自分に使えるものを抽出しようというだけ。いうなれば時代の淘汰に耐えてきた観念だから耐えてきたなりの何かがあるだろうなということ。新しければとか自分が正しいと思えばそれで良いでは済まされない。

 

例えば、神秘主義から。人生は魂の修行だという言説。真面目に考えると、修行して階層が上がったところで自分が満たされていなかったら意味はないでしょうとか、そもそも来世のための今世とか恣意的な設定ではないかと思う。これは仏教観にもつながるけど。自分を愛するというという標準も、自分があるがまま、それは良い。けど、その標準が今蔓延っている常識への反発というだけではどこにも向かわない。属性とか年代へのレッテルに対する反発で反時代的な試みをしたところで、否定的な要素しかなくて、その先にある自分へ肯定までたどり着いてないよなと。

 

嫌な関係は切っても良いという言説に乗って全部切ってしまった人は孤立することになるよなというフレーズがバズっていたのもちょっと近そう。相互依存できることがすなわち自立だ、うむ、よーわからん。人は1人では生きていけないのは種として見れば当たり前の話であって、いったい何が言いたいのか分からない。上手く他人を使って他人にも使われるというスキルの話なのかなという感じ。自分にとっての都合の良さしか見ないのであればそうなるか。

 

個人的には神秘主義の原点たるシュタイナーさんの言の方がしっくりくる。人は「意志」と「思考」と「感情」で構成されていて、修行していると個々が切り離される。しかしそれぞれバランス取れていないと神秘修行をしても大変なことになるとのこと。そもそもなんでこの分け方をしたのかについては当人に聞きたかった。例えば、「知覚」はどうなるかとか。知覚はどの要素に対しても前提になりそうですが。

 

面白かったのは、大変なことになるの中身。「意志」が強すぎると行動から行動に暴走することになり、「思考」が強すぎると現実に対して無感覚になり、「感情」が強すぎると感情を動かす対象を教祖にして依存してしまうことになるとのこと。修行をしなくても一般的にあてはまりそうな分類。

 

要は、この三要素のどれかがアクセル全開になりそうになったら他の要素がブレーキをかけられるくらい強くなければいけないという感じ。他の人は知らないから自分の話をすると、この分類でいうと、もともと「思考」優位で「感情」優位であったところもあり、「意志」だけ発展していなかった。ただ、「意志」は目的ありきの要素であって、目的意識があまりない以上、意志しなくても都合よく体が動くという調整をしている。

 

感情でいうと基本的に情け深くはないけど、行動と切り分けてみると割と情緒豊かだった。

 

別に皆が皆こういう分類で自分を解体する必要はないと思うけど、「自分がどう生きているか」という意味ではとても分かり易い分類ではある。まずはこの癒着を切り離すのが修行の前提とされたのも分かる。

 

あぁあと、「理性」はどうなのだろう。「意志」が強そうだけど、僕のイメージだとこれって損得勘定で適切に選択できるという感じだから「思考」の方が強そう。ただ、僕の「思考」は損得度外視の、妄想とか想像の範疇で、自分にとって何が都合が良いかという判断はない。

 

そもそも都合が良いの意味が分からなくなっている。

 

カントさん曰く、アプリオリな悟性だし、仏教観だと善悪の行いはカオスを経て自分に返ってくるみたいなことだし、理性は高尚なのか低俗なのかよく分からないところ。

 

自分が何かをするときに、その前提として善き悪きって考える必要はあるのか。なるべく人の時間を取りたくないとか、人に取られたくないとかって善悪以前の話であって理性が判断していることではないような。

 

そうそう、思考。

 

思考の範疇には、想像とか妄想も含まれるけど、これが現実化すれば良いとかは関係がない。現実世界にしか幸せはないのだとスピリチュアルなブログで見たけれど、確かにそうで、僕は自分の妄想とか想像には期待していないし、実際にあれば良いとも思っていない。あったら頑張ろうと思っていますが。

 

現実世界に対する充足で言えば、正味、十分だったりする。現実とは肉体が知覚できる世界であると定義すると、歴史上これだけ世界を知覚できることはなかったという意味。日本でも少し遡れば表現に対する検閲がまかり通っていた訳で、捉える範囲を国から決められていた訳。テレビとかまさにそうだと思う。

 

あと、気持ち悪い話だけど、好きな人と文字世界で出会えて幸せだわと毎日思う。意志が介在しなかったから余計に。だから、こういう標準で生きてなさそうな好きな人がこの場を許容していることがなんだか歪だなと思う訳で。

 

 

現実とか生活って、人と関わることが前提とされているようだけど、自分が物理世界をどう生きられるかも当然現実生活に含まれる。

 

続きは直でいいか。

 

 

良い聖夜を。

 

おやすみなさい。