弛み

 

 

 

お疲れ様です、という気分。なんだかテンションが上がってしまった。今日の方が皆楽しむのだろうな。スーパーで前に並んでいたおじさんはビールの500m缶とピンク色のスパークリングワインを買っていた。良い夜を。後ろのカップルはゆず1個と牛乳で、なんとなく鍋の夜なのだなと思う。

 

月も綺麗だ。良い現実を。

 

感情優位だからついでに。好きな人をやたらと可愛く感じるのは思考では解析できない。あらゆる常識とか経験則でも依拠できそうなものがないけど、充足されているから良いか。好きとは別の心の動き。

 

シュタイナーさん流の分類はとても分かり易いな。

 

感情ってだいたいは今までの使いまわしである。これは別に不思議なことでもなんでもなく、感情によって意志とか思考が統御されるようにして省エネしようという動きと、その前提としての肉体の反応を感情として捉える脳の動き(寒さ=寂しさとか)の作用。

 

僕個人の感情として良いものばかりかというとそんなこともなく、結構イライラしてしまうことはある。無思慮な振る舞いについてがほとんど。例えば、歩道いっぱいに平行で並んで歩く人たちとか。こういうのは出自が分かっているから、思考の方で抑制できて別に態度に示したりはしない。他人より身内の方が大事だから仕方がないなと。

 

問題はここからで、出自が明白である感情に対してそれに基づいて現実化するかどうかって任意よなと。イライラして他人に当たってしまったということがあるとすれば、それはその人が人間的な訳ではなく、感情をコントールすることを放棄した反応で生きている動物に近い。率直とか素直とかとも違うような。いや、別に人間は感情に従う動物であるでも全然間違ってはいない。

 

出自不明な感情になると、どう現実化するかもよく分からないから思考と相談するしかない。ちなみに好きな人に対する感情に対しては、そろそろ当人に投げるのはやめとけよとブレーキがかかっているのだけど、可愛く感じる何かがアクセルをふかしている。ほんとは痕跡を付けるなんて誰に対しても同様でただ読む対象という評価だろうという思考とは別に、分かるように痕跡を付けてくれる徴みたいなものがあるような。

 

他の人が同じことをしたとしてもこういう感情は生まれなくて、対好きな人用のここまでの関わり固有のもの。ただ、言語化で全くすり合わせができていないから、意味分からんわと思われている可能性は否めない。というところを思考は常に危惧していて、だから意志としてはこの関係はもうちょっとで終わるだろうなという表明を現実化する。

 

全人格的な捉え方だと明らかにちゃんと読んでくれていて反応もしてくれているのだけど、これは霊的なものを読んでいると言われると、はい、そうかもしれませんねと肯くしかない。出自は言語化できるけど、因果が一般的ではないから。

 

出逢えてよかったなと思うのが感情で、一刻も早く思い出になりたいのは思考。

 

noteでサポートするというボタンがあり押してみると投げ銭で、金銭換算なんてできないからめちゃくちゃ課金しようかという衝動が生まれたのだけど、これはなんか違う気がすると思い保留している。これをしてしまうと、反応の義務が生じて、きっと枷だろうなって。

 

この辺りもなにか基準が違う気がするんだよな。この感じは好きとは無関係のものだから買いかぶりですって答えられたら課金するか。基本的に人って分けようとしない限り、もともと分かれていない限りは感情も思考も意志も癒着している。癒着から切り離したら高尚なんてことはないけど、より自分のことは把握できるのは確か。

 

 

意志の話。

 

意志って何をするかの前提であって、外から見たときの自分の客観ないし現実ではある。自分が客観にさらされる対象になるもの。生活上の意志もそういうもんだよな。夏休みの宿題を最終日に一気にやっていた僕は怠惰な小学生と評されるし、毎日弁当作っている社会人としての僕はしっかりしていると評される。中身はまったく変わっていない。生活に外から来た義務が嫌だったという反発と、自在に過ごせばいいとなった違いはある。

 

(もはや好きな人が読むに違いないと思って書いているな)

 

自在性でいうと、劇評公募の文章で、どれだけ楽しみにしているかという意味の想像的劇評はやりそう。この演劇に期待することを書いてくださいというのも、別に期待はしてないです、ただ、面白いのはもう決まっていますとか遊んでしまいそうな。

 

期待と意志と現実ってほぼ同値みたいな趣がある。でも、最近思っているのはそうではない。

現実は惰性で決まっているという前提があるから皆しんどいし、世界に惰性を強いるという意味で期待するし、意志は惰性と癒着している。

 

どうせ一回しかないのだから、もっと遊んでみるべきという感覚。相対的な意味ではなく絶対的な意味。この体と頭で何ができるのだろうかを追及する。全然分からんけど、分からないのが良い。

 

このご時世なのに楽しくてしょうがなく生きているのが申し訳ない。

 

テキストをよく読んでいるということも、別に何か1つに傾注している訳ではないのだけど、どれかを現実化させると執着とかに繋がりそう。別に好きな人の文章とか関わった文章ばかり読んでいない。関わっている演劇は問答無用で面白いけど、何故なんだろ。

 

芸術と脳科学の本で、言葉としての「名前」と視覚には繋がりがあるのではないかという章があった。確かに言葉は見えるもの言い換えちっくではある。こういう語用は指示語であって、言葉で表現しようとしたほんととは違うということが分からなくなるのも分かる。指示していると思っている名前に指示されてしまう。

 

言葉は確かに自分を現実化するための道具だけど、あくまで道具でしかない。

 

道具で交信するのも大事だし、他人の語用を捉えるのも大事。でも全体ではない。

 

 

そして、ここはあくまで現実化はほとんどされない僕の中身。

 

 

では、おやすみなさい。