没頭

 

 

 

年末だから浮足立っているのか、連続投稿。

しばらくまた連続になるかもしれない(未定)。

 

他人の中身を想うのはなんというかシュレディンガーの猫的だ。○○であると考えたとき、それは○○でないと同時に存在している。かといって、現に○○が現われたとしてもその人の性質として固定化されるのかというとそうでもない。

 

そもそも、考えている対象としてのその人は過去の情報であり、いまのその人を考えるのでれば、それは控え目に表現して想像、あからさまに言うと推測の範疇でしかない。

 

人の中身は分解すれば分かるものだという観念は科学主義というか機械論とか運命論みたいな感じ。ある刺激があれば同じ反応を示すという前提がなければ同情で同調できるという観念は生まれない。想像上の秩序=共通神話なのかもしれないが。

 

演劇における「役」にも繋がっているような。

 

詳細は後で。

 

さておき。

(某ライブをBGMに、楽しそうで善きだな)

 

本日目が覚めると、体がオロナミンCとアイスを渇望している。珍しや。オロナミンCに対しての出自は分かる。文字を見て記憶が想起された。小さい頃のご褒美だった。お祖父ちゃんち行ったときとか、マッサージをしていた近所のおばあちゃん家に行ったときによくもらっていた。ヤクルトもこの範疇。アイスはほんと何か月、年単位かというくらいだったから奮発してハーゲンダッツにした。ほんと美味しかった。美味しく感じるものは体が欲しているのだという説にはなかなか信ぴょう性がある。美味しく感じる文章には、とかあらゆる方向で適用できそうだけど。

 

日中は相変わらず、好きな人の変さを想いながら法律書を読んでいた。昼間に読書時間で読んでいる本を読まないのは没頭し過ぎることをセーブするため。そういえばかの文章はいつ書こうかな。今年中には書いておきたいところ。

 

法律はなんとなく読み方が変わってきている。裁判でどう主張して証拠を提出しなきゃならないかというある意味専門的な分野と、平時のなんにも問題がないときにどういう風に「想像上の秩序」が形成されているか。債権譲渡とクレジットカード決済とか。あんまり細かいことは書かない。

 

あと、言葉の記号としての意味をもっとちゃんとしようとしている。これは言葉に自分を丸投げしない(=期待しない)という素朴な現実に繋がる。

 

ところで想像上の秩序は一般的には現実に含まれるものなのだけど、これを想像上のものだと一般人に知られることは歴史上のタブーらしい。憲法の文面とか割にどこ国も神話ちっくなのだけど、それには気付かれてはいけないみたいな。アメリカ独立宣言って、社会科で習ったと思うけど、造物主は人を平等に造ったのだというフレーズが出てくるし。

 

平等とか人権とかも、想像上のものであるとなったら現代人でもびっくりしてしまう人は多いかもしれない。この概念装置の主眼は、国家に秩序維持のための暴力を集中させるけど、国民の自由は最大限保障しなければならないという国家機関の抑制にあって、個々人がそういう概念を信じることではないのだけど、多数派が信じないと想像上の秩序は保たれないのも分かる。まさに現在進行形の時代観。皆がいつ飽きるのか。

 

ここでいう、信じるは現に存在することを前提とするではなく、現実的な行動指針とできるという意味。理由付けは後付けでもなんでも構わない。

 

で、面白いのは、このホモサピエンス全史とフロムさんがまぁまぁ同じことを言っていること。想像上の秩序は物にかかわるもので、人の現実的な欲求を規定する。

 

例示で挙げられていたのが旅行への欲求だった。移動して生活圏ではない体験をすることで潜在的な自分が開花されるのだという信仰。これはロマン主義から来ているとのことで、ロマン主義って何ぞやと調べたら、割と昔の文芸活動だった。人は自由だというやつ(雑い)

 

新たな体感ができる自由の前提って人は生活圏という場に固定されているということで、この前提自体が幻想ではないか。この前提がある限りどこに行っても目は開かないよなぁって、梶井さんの檸檬の冒頭を想い出した。ちょうど時代だったからロマン主義への反発だったのかと想像。もちろん新たな経験は大事で貴重だけど、目を開く準備とか意志とかがなければ新鮮さだけを無限に欲求することになるだろうなというだけ。

 

あぁ、だから移動とか人と会うことが制限されるとしんどいのか。僕が好きな人と会ってみたい衝動は別に自分の欠けているところを埋めるためのものではないなから、待つとか予約するでもない。

 

「こころ」を読みながらnoteも読むというとても贅沢なことをした。夏目さんは時代の規範に抵抗した価値観がもともとあったのかなという感じ。主人公の兄が先生を見下すところとか。何かできるのにしないのは怠惰だ、みたいな、仕事とは社会に貢献するためにあるみたいなものさしが当たり前だったところに疑問を持っていた。

 

では、今の時代のものさしとは。現代は思想の自由が保障されているから、よほどでないと思想の主張に関しては制限されない。だから逆にもともとの規定値みたいなのが剥き出しになっているのかもしれない。

 

読んだnoteは没頭の話だった。生活に没頭したい、没頭できたら良い、でもできない。没頭の体感がある人だからそう思ったのだろうけど、そう見える人は別に没頭している訳ではなく、それしかないのではと思う訳で。他の選択肢が浮かばないことを没頭と評すのであれば確かにそうだけど。

 

これに加えて、ちょうど今日、現代日本の哲学者さんのnoteを読んだ。どれだけ読んでいるんだって、可処分時間のほとんどは読むことに置いているので。

 

曰く、人は理想像がないと生きられない、という冒頭。

 

理想像なくても生きてますがと反発したのはさておき、文章をかみ砕くと、人格は倣う対象があって、公共空間と私的空間における人格として、私的空間まで綺麗にしようとするのは人を寂しくさせるみたいな話。

 

雑いのは全く共感も読解もできなかったからだけど、たぶんアイデンティティをペルソナとしているからだろうなというということ。人の外用の仮面は物だから、交換可能で経済的な取引対象になる。多数性は悪だけど、悪がないと人は成り立たないという言説も、対他人でなく対自分なら分かる。他人が都合良くないの前に、自分のカオスに向き合いましょうという意味なら。

 

素朴な自分としては、行動指針とか思考指針のなんらかの価値体系なんて自分がよりよく生きるための道具でしかないから宗派なんていつでも変えて良いのではというくらいにしか捉えていない。松葉杖があろうがなかろうが、自分であることからは離れられないし。まずここから再開しないと自分のことも他人のことも分からないのではと思う次第。

 

 

 

どうでも良い話だけど、僕はほとんど誰にも見られなくなったいまのほうが、世界に参加している感がある。関係していると、あくまで当人の中での役者なのだろうなという感覚があった。親しいが規定し規定されることなら駄目なんよね。僕は相手のことを規定しないから不公平になる。この公平も想像上の秩序だけど、巻き込まれるのはごめん被る。

 

この楽しさは、関係している人がしんどいとか疲れたとか言っていたら無理だし、ペルソナとしての僕を僕とされてもしんどい。

 

言葉はそれほど重いんだよな。

 

 

では、おやすみなさい。