正しい争い

 

対話とはなんぞやと思ってしまうな。ここにおいては。

ほんと、好きですわ。

 

スーパーにはおせち料理の食材が並び出した。関西に来て初めて知って自分で煮付けにしてみた慈姑もある。調理してみたのは形が変だったから。味はさっぱりした里いもみたいな感じ。今年も作るのかは未定。

 

新刊枠のファンタタジー。ファンタジーと言うより空想の民族史みたいだが、魂と体の関係で、体という枠があるからこそ魂も在るのだというフレーズがあった。僕が思考を遊ばせているのは体の枠に付属した思想みたいなものが割と確立しているからだろうなとふと思う。自分の思想とか行動規範が幻想でしかないと知っても、あぁそうですかとしかないならない。

 

別に体の枠にも不自由はないというところから、今の職場環境で一番の利点は、生活に歩く時間が組み込まれていることだろうなとなった。たかだか40分弱だが、自分がどう歩いているかが点検できる。昔もっと体を動かす仕事をしていた時の自分の腕の筋肉とか、今より多かったけどとても硬かった。今の足の筋肉はとても柔らかい。たぶん、動かしているのではなくて動いているからだ。無理はさせていない。

 

あと、発話のみを用いた疎通が組み込まれているのも良き。仕事でなければしない。詳細は省略。

 

体の動きは頭の動きにも当然連動していて、体の動きの滑らかさは思考の柔軟性に繋がる。移動の概念の中核は「自分の体が動かせる範囲」である。刑法の監禁罪の法益(犯罪として刑罰を科すことで守られる人の利益)とは「移動の自由」なのだが、判例最高裁判所の判決)で、移動には移動する能力と意志が前提とされるのが一般としつつ、1歳ちょいの幼児の物理的・自然的な移動も含まれるとしたのとなんだか似ている。

 

ところで、僕が好きな人のことを寂しげに捉えてしまうのは何故だろうと考えていた。そもそも良いとか悪いとかの評価のことではないとしても、やや失礼ではある。おそらく仕事のやり方としての「観測者・記録者」という視点が舞台の外から観ているように見えるためにそう捉えてしまうのであって、「生活者」としての当人はきっと舞台に上がっているし主人公であるに違いない。「生活者」の方は僕が見ることはできないものだろうけどそれはそれで。寂しくなければ良いなと思うのは祈りの範疇。僕の抱擁に効用があると思っているのかと自戒したが、いやほんとに効用があると認識しているならもっと動くだろうし、ここの評価とは無関係であくまでただ嬉しいのついでかとなった。

 

 

感想文的な文章。

 

まず「暴力」の範囲。刑法上の暴力概念には広い意味から狭い意味までグラデーションがあることをちょっと思い出した。一般語用だと、「人に対する有形力の行使」になるのか。これが暴行罪における「暴行」。間接的なもの(近くの物を破壊して威勢を示すとか)が公務執行妨害罪における「暴行」でもっと広くなる。一番狭いのが、反抗を抑圧する程度という言葉が付加されたもので、強盗罪・強制性交等罪における「暴行」。暴行によらない障害という概念もある。障害は、人の生理機能を侵害することで、騒音とか無言電話でのPTSDは犯罪とされている例がある。言葉だけでも程度によってはありうるかもしれない。自殺するしかないように追い込んだ言葉が殺人罪の実行行為(犯罪の結果を発生させる現実的な危険を有する行為)になりうる(他の状況も諸々踏まえ)という例もあるから、言葉の行為性というは社会的にも認証されているよな。民法だともっと言葉は現実的な意味を持っている。

 

あらゆる人が言葉を扱って表現できるようになっている時代としても言葉の現実性については希薄になっていそうではある。

 

あと、あの日の話。モニュメントって語義としては分かるが実感として全くしっくりこない。同じ感覚なのは党派性。記念碑としてのあの日って、過去を祀ることだとするととても宗教的な気がする。セーブポイントならとても分かる。要は、脳が記録していてその地点に立ち返ることができる自分の場。

 

どうでも良いけど、「こころ」は全部通して読んだことがあったはずなのに、主人公の父親の死の場面はすっかり抜け落ちていた。これってたぶん父親の死にまつわる観念については意識に上らないようにするという逃避的な作用なのだろうな。悲しくなることが良くないことだとしている模様。なんか、親類が父親に対してあの人は良い人だったって飲みながら肴にしているのがなんとも言えない記録。当時は自分が知らない父親の面を知っているのだろうなと素直に思っていたけど、今は違う気がする。一種の儀式でしかなかったのだろうなと。演劇感。それぞれ悲しくは思っていたのかもしれない。ただ、その悲しみは言語化されていない領域にあるはずで。

 

あと、「初恋を意識した日」というところからの連想で、恋人にまつわる色々が出てきたしまった。高校3年生の時の恋人さんと空き教室に2人きりで、窓から外を眺めている。距離がやたら近くて、相手が自分に触られたいというメッセージを送っているのは分かっていても、実際の体は動かない。おそらくここでいちゃいちゃできていればもう少し長続きしただろうなというとても酸っぱいあの日。分かっていても動かないというのは史実上いくらでもあること。

 

日単位のモニュメントって、いくらでもあるな。「初めて雷が間近に落ちた日」、「演劇初体験の日」、「好きな人を初めて眺めて、竹林に穴がある作品のパネルが良く見ると傷付いてくたびれていた日」、「元々の恋人さんとの最後のデートの日」、「おじいちゃんの死体と添い寝しようとした日」、「初めて会話した日」、「基礎ゼミの人達と花火を見に行った日」。

 

ただ、イラスト化(絵は下手なので無理です)とかで他人に伝達したい日があるのかというと、そんな日はないなと思う寂しい人物。伝播なら問題はないが。伝達と伝播の違いは、伝達の方は意志を持ってエピソードを伝えることで、伝播は別に意志はない独り言。

 

最後。

 

「争いがない世界を想像できない。なくても良いものでないと思う。」という趣旨のフレーズを見て考えたのは、僕は育ちが悪いから争いの効用がインストールされていないのだろうなという発想。好きな人は確かに育ちが良さそうな感じはある。

 

ちょうどホモサピエンス全史でそういうことが書かれていた。人間はサッカーをできるようには創られていないけど、サッカーのルールを学習することでサッカーができる。人間以外の動物は争いを自然的にする。子犬は喧嘩で遊ぶ。みたいな下り。

 

DNAにインストールされた争いの効用って、力加減を覚えるとか親しみの証拠とかそういうものなのだろうなと思った。競争原理が自然なことかとなると、うーむ。

 

僕が見てきた争いって、それが終わったら仲直りするとかではなく全力で相手を排除をするというもので、母親は姉に対して産まなきゃ良かったって言うし、姉は母親と絶縁するし、何も実らない争いばかりだったから、争いは忌避するものでしかなかった。今となると、ルールに則って勝ち負けを決めて後腐れなしというのがスポーツなのだから、もっと部活で勝っておけば良かった。

 

たぶん、争いがちゃんとインストールされている人はルールに則った後腐れがない戦争が前提になっている。僕は個人的な関係でもほとんど謝るかスルーしていた。だから、貴方が思うことを主張してくれって言われる訳だけど、別にそんなものはないとする。学習が足りてない。この辺りが自己評価として相対的に無価値と連動しているのだろうけど。

 

こういうじゃれ合い的な争いは別にして、争いが起こる前提って、希少性か正当性を奪うことだと思う。希少性は資源で、正当性は教義。古来の戦争は、土地とかの領土を奪うことで自国民を豊かにするだったけど、近代は、自国の思想の正しさのための糧にする。十字軍とか。十字軍は中世だけど。

 

僕は育ちが悪いから、強い言葉とかは使わないようにしている。

育ちの悪さは最初の社会だからある意味どうしようもない前提ではある。人のことが全く分かった気がしないのもそうなだろうな、きっと。

 

ではおやすみなさい。