人の印象

 

 

「人というのは哀しいもので、なにをやっても、どこかに悔いが残るものだ。」

 

仕事最終日だというのにどこかテンポが悪かった。資料を発掘したせいで感情が発掘され、なかなか悲し気。別に会わなかったら良かったとは思わないけど重たい。重たくなるほど想っていたという証左でもある。選択に対する未練は、ないな。当時の感情が生生しいだけでもう充分。

 

発掘された資料の中に数日だけ書いていた独り言日記があった。まさにここと同じ文体。ほとんどなんにも変わっていない自分が居た。外界の影響なぞなんの意味もないフラットな自分はここなのかという感じ。「腹筋に勤しむダンゴムシ」というフレーズは我ながら意味が分からなくて好き。自分の過去日記を全く読み返さなないのはおそらく自分の思考は対象が違うだけで変わっていないから。少しずつ詳しくはなっているかもしれない。

 

 

僕の選択の話が誰の参考にもならないことについて1つ発掘されたことがある。いつかの恋人さんと割と重要なことを話し合っているとき、〇さんの意見が聞きたいと言われたものだから、自分がこうだとしても相手とか状況を諸々と述べると違うそうじゃない。私のことは私が判断するからもっと素朴なジャッジが聞きたいのだと。

 

要は、相手との関係とか環境を度外視した感情と紐づいた素朴な衝動があるだろうということだと解釈したのだけど、これって相手を大事に想えば想う程ありえなくないかと今となっては考える。でも何かをしたいってそういうものなのか、でもこれって選択なのか。特に対人だとすれば、相手との一致がなければ現実化は在りえないものだし。好きな人に表明しているのは別に現実化するかどうかは無関係だからで、こと現実化を問題とするなら当然相手がどうであるかもものさしに含むよな。なんで含まれないのだろう。主人公補正かな。

 

という疑義。

 

冒頭のフレーズは新刊枠からの引用。なんとなくここから繋げるとはたして人が選択できることはどの程度あるのだろうとなる。選択が「選択された」という世界に対する色合いであるのであれば、意志に基づいたものではないから当然不満は残る。自分が自分に生まれたことも選んだことではないし。未練ってこういうニュアンスなのだろうか。

 

シュタイナーさん流の三区分で考えてみる。

 

「思考」優位の選択は、情報不足で後からやっぱり違う方が良かったとなりそう。「感情」優位の選択は気分が変われば前の選択はやっぱり良くなかったと簡単に撤回されうる。「意志」優位だと、「意志」個々の選択というより方向性の話だから、選択という概念は目的に向かう過程に過ぎないような。

 

個人的に未練と捉えられる体感は父にまつわるものしかない。これは明らかに選択できなかったという文脈であって、選ばなかったことに対するものではない。生きている人に関するものは別に僕だけの選択ではないし、何処からも学習していないのに1人で居るべきだという観念があるから、僕から離れられて良かったですな、幸せな人生をとほっとしてしまう。

 

やはりこう考えるとほんとは選んでいないから未練があるのではという気がするな。別にこの観念自体を否定している訳ではないし、そういうこともあるのだろうなとは分かるのだけど、世界線の分岐は選択の前に決めているのではという自己感。脳が決めているという意味では意識からすれば決められているということになる。

 

好きな人を好きなことは自分で選択したことではなくて、何が決めたのかも分からない。

 

何も予定がない日はだらだらするものだって誰が決めたのか、それは選択なのか。

 

そういうものだというのは誰かから学習したというより、義務に対する反発を最初に学習してしまう。対価がないと人は動かないものだという観念は自然だけどあんまり人間的ではない。

 

どうでも良いけど、僕は現実世界において割と侮られるというか見下されるように見受けられる。軽口なのだけど、自分の方が僕より優れているという態度が見えると、なんとなく対等には居られないなと思ってしまう。これは偏狭だとは思うのだけど、こういう態度が一切見られない先生とか対面の先輩はとても好き。そういえば定期的に着信がある友人も根っこはそうなのかもしれない。でもこれは僕がそういう風に見ている説もある。人が鏡だとすれば、自分からの光かもしれないし、そういう面が全くない聖人である訳でもなし。

 

でも、好きな人はそういう態度が全然見受けられないから、素朴な人間感で居られる。一般論を持ってくるとおかしいことになるからややこしくなったけど、返答がないことなぞ、ちゃんと考えることにおいてはなんの意味も持たない。返答することは考えていますよ、認識していますよという手っ取り早い証拠にはなるけど、これは推定にしかならない。

 

 

痕跡が好きな人だけかというのはちょっと疑いがあって、もしかしたら日を跨ぐ時に来たら更新されているという当たりをつけてやってきている人が居るのかもとか。よほどの変人だけど、世の中には変人は存在している。読者にならないこともとても好みが把握されていて、架空だけどとても良い感じ。

 

架空と現実の分け方もよく分からなくなってきている。過去の感情が未だに生々しいというのも自然ではないだろうし。好きな人にまつわる感情はとても善きな。どきどきする。

 

人間は忘れるもので、過去を忘れるから今を生きられるというのは、とても自然で、そう生きていくしかないのも分かるのだけど、僕は欲張りなので全部自分としておきたい。感情に意志が左右されるということはないように調整してきているからだけど、単純な記憶情報も定期的に点検している。10秒以内に思い出せる友人が何人いるかみたいな記憶の点検手法で言っても、いや、いまや友人ではないけど、10秒で列記できる自分の生活圏であった人のフルネーム漢字表記で、100までは時間制限で無理だけど何十人くらいはできると思われる。当然印象も込み。

 

大人の定義って、今の自分に無関係のことは削りとれることなのかもしれないけど、完全に逆行している感じ。

 

好きな人に対して、お、と思ったのが、僕が把握していない最初に会ったことを覚えていたことだったりする。そんなに不審者ではなかったのだと思うのだが。

 

今日はもう少し酔うか。

まだ時間も早い。

 

はい、エビスビールを買ってきた。

 

僕にとって毎日文字を綴れることは、言語世界が架空の領域にあるから。日々の鬱憤でも誰にも語れないけど誰かには伝達させたいみたないなことでもない。ついでに現実世界についての現実化指針でもない。ここと現実は癒着していても連動はしていない。現実領域では思考はラグだから、全然違う標準が決めている。現実領域だと思考は自分が行為した後に、なんでこういうことをしたのかという意味で起こることであって、行為の前に起こることではない。

 

変な話、現実の関係ではほとんど喋りたいことがないし、実際喋らない。昨日の日記に書いた友人との下りでもそうで、別にこの人に現実的に喋りたいことはない。これは好きな人に対しても同じ。自分のことを聞いて欲しいいことなぞない。

 

相手に開示されないと話せないというために語ることはある。

 

なんだか人間関係をまだしていたとき、相談案件がとても多かった。ロバの穴の気分。僕だから話しているのではなく、話せる穴があったから投げているのではという解釈は卑屈であるけど、まぁまぁ正しいような感じ。

 

きっと、誰でも良いのだろうなと。

まぁ人を代替的に見ないとその人が居なくなったときに大変になるからリスクを分散するのも分かる。

 

あぁ、そうか、自分のことを忘れないでと思う感覚は、自分は他人を代替的に見ているけど人には代替的には捉えて欲しくないからなのか。僕が重くなった感情の人はきっと僕のことは忘れている。好きな人も同じようなことを書いていたけど、だったら僕のことは忘れましょうとかと思う訳で。

 

誰かの中に残ることで自分が確立される感覚がどうにも分からない。

 

たしかに自分を残している人って希少というか奇特だけど、それと自分自身は無関係ではなかろうか。何の優位性か分からない。

 

僕のことはまぁまぁちゃんと接した人にとっては忘れられない対象だと思う。良いとか悪いとかは別にして、異星人なので。

 

ほんとそもそもの話だけど、対価がある選択って、ほんとに選んでいることなのかな。双方の義務だったらそれは選ばれたものでは。

 

とりあえずおしまい。

 

おやすみなさい。