共感の拙さ

 

 

本日は良く寝た。睡眠時間が多いと気持ち良いけど自分の頭がリセットされた感じになるからあまり好きではない。夢もあまり良いものではなかったし。飲み過ぎて関係が壊れてしまう。もしかしたら関係なぞもともと壊れてしまっているのかもしれない。どうせ忘れられないし。

 

今日の夕方に回収しないと年明けの仕事に間に合わないため、夜になってから外に出た。日中風がぴゅーぴゅー鳴っていたから何か起こっているのだろうと思っていたら、雪が降っていた。雪はもともと好きだけど今年の初めのとても善き記憶とセットだからどれだけ寒くて手や耳がかじかんでももわらけてしまう。ついでに雲が薄くて満月の姿が透過している、夢のような光景だった。他に大事なこと何ぞないのではと想えるくらい。

 

世界は脳が見ている。

 

 

さておき。

 

自分の中では死語にした「べき」が対人になると急に出てくるのは面白い。と思うと、そもそも権利義務の概念が関係を前提とするものだった。「離れるべき」なんて義務概念では中身は規定できない。人がこの「べき」的観念を遣うとき、だいたいは誰かに行為させる文脈。多いのは自分がこういう規範で生きているのだからあなたもそれに従うべきだという語用。好きな人は基本的に自戒的に遣っているのが無意識に引っかかったのか、と今更。

 

僕の根っこにある関係への忌避感は、自暴自棄的な精神傾向とは少し違って、関係にまつわる、相手のことを考えなくて良いとなるショートカットの感覚へのもの。全然わかっていないのに、生活関係上身内であることで相手のことが把握されたとみなされる感じ。関係は自分を安定させる道具だというのがとても嫌だったのだろうな(田舎の親族近所関係)。

 

脳の機能として関係が多くなると再現容量が追い付かないために索引の手法が生まれたというのを読んだ。情報量が増えることに対して基本的に拒否反応を示すのが脳。重要な情報だけで十分というやつ。人の名前が覚えられないのは当たり前の機能だと思う。その延長線上に、類型上の関係を示す言葉がある。僕が見ているつぶやき界隈だと、ガスの点検に来た人がパートナーをご主人と評したことに対してクレームをしたとのこと。僕とパートナーは主従関係ではないのでって言ったらしいけど、なんで世界に表明しなきゃならないのかという心理が気になるところ。ほんとに対等だったら外からどう評されようが無関係ではないか。

 

凄く言葉に支配されている感じ。ほんとに非言語で相手を観ているのであれば呼び名なんてなんでも良いはず。僕は自分がどう呼ばれても、あぁこの人にとってはそういう分類なのかとしか思わないのだけど、言葉と自分が無茶苦茶癒着しているに違いない。

 

仕事でも時々ちゃんと名前で呼んでくれる人が居て、その人に対しては、お、となる。ちゃんと固有名詞で捉えてくれているのだなって。基本的には名前なぞ記号でしかないから、関係を示す言葉も外用のものでしかないのが分かられていない。外に認められないと証明できない関係なんてあってないようなものでは。

 

この文脈で考えたとき、好きな人が僕の固有名詞の読み方を聞いてくれたことがとても違和感があるんだよな。何かズレているような。

 

 

ともあれ。

 

要は、僕の物語の中では誰もが固有名詞で登場していて問題ないけど、相手の中では役割としての呼称であれば、僕があえて登場しなくても良いだろうなという理念。例えば、母親にとっての僕は、○○悠である前に、「息子」である訳だけど、僕にとっての母親は、母親である前に、○○〇美としての個人である。

 

だから、僕でなくても良いよなとなると、そうそうに撤退する。

未だに撤退されないということは、なんかあるのだろうな。

 

ところで、からくりサーカス

人形が追う人間観から人間が浮き彫りになる。

 

ある人形は、歴史(過去)が人間を形作っていると捉えて自らの歴史を改ざんする。ある人形は恋愛関係を所有関係と捉えて、愛とは相手を所有することだと捉える。

 

人は過去に囚われるべきではなくて、いまが大事なのだというメッセージもあり。過去は今以降に参考にする対象でしかないとすると、未練という概念は生まれない。死人は何も答えてくれない未練なら分かる。

 

 

物語論

 

「朗読者」で、主人公が他言語で書かれている手記に対して、共感できないというフレーズがった。好きな人も、僕が好きな人に共感しているから好きなのだと思っている節があるけど。

 

僕はちゃんと自分が固有だから、共感的に対象なんて見てない。近いから好きではなくて好きだから好きだけでしかない。

 

何かの創作を読むときに登場人物に移入できなきゃ楽しくない観念も不思議。自分がどうであるかは関係なく没頭できるのが創作でしょうよ。もっというと、相対的自分観が関係の中でしかないなら、空想上の物でしかない。

 

何か読むときに自分しか基準でないならとても狭いと思う。

 

 

僕と他人は別物でしかなくて、世界は別に僕にとって都合が良くはできてないし、だからといってヒエラルキーみたいな基準で人を観るのも違う。

 

何かを読んでいる時に働く脳の機能は、想像の領域。自分だったらどうかという共感領域ではない。でなければ古典は読めない。自分は無関係。

 

 

おしまい。

 

 

おやすみなさい。