個人観

 

 

 

なんというかどこまで行っても普通の休日である。一応カップ麺の蕎麦だけ買ったくらい。慈姑は高かったから年始で安くなっていたら買おう。単位はあくまで人口物でしかない。とはいえどの単位を選ぶかは意志の問題。正月の人が居ない感じは好き。雪は降っていなかったけど、遠くの空模様を見る限りあっちでは降っていたのかもしれない。

 

さておき。

 

ちょうどからくりサーカスが終わる。愛の定義はなかなか大変である。愛とは相手を占有することだという観念はとても根深い。想い出の中に笑顔があれば良いと言うのが主人公。確かに。笑顔は尊い。これで十分条件。きっと優先順位高いところで過ごしているのだろうし、良いお年をと思い、ほっとする次第。ほんと良い意味でどうでも良いんだな。

 

終幕の時全員が登場するシーン良いな。すべては読み手の感情を動かす為の演劇でしたみたいな。最高傑作だと思う。色んな文化観・哲学が盛り込まれている。笑いが他律的なものではないとか、社会における役割に当てられた呼称とバイアスの感じ。観客が居る・居ないってそういう呼称として見る人が居る・居ないの社会と連動しているような。

 

そういえばそろそろハムレットも終盤。レイティアーズの人格は好きだ。一番まともな人だと思う。陰謀を企てからばちがあたったのだとか。ばたばたと主要人物が死んでいく。死ぬところってかなり簡潔なんだな。次はロミオとジュリエットかね。

 

脳と芸術とかホモサピエンス全史とか世界史を見ていると、現代の一般的観念って最新よりだいぶラグがあるのだろうなと思う。最新がどこにあるのかは不明だけど、人権とか自由主義とか理性至上主義って、それぞれの分野ではもはや古典ではという感じ。理性至上で自分が全部自由に選択しているという観念はカントさん由来なような。もう一回純粋理性批判読まなきゃな。

 

人は生まれながらに決まっているという観念も根強い。カースト制とか士農工商とか。現代だと生まれた家庭の経済力か。

 

たしかに、育ってきた環境ってある人のパーソナリティにおいて致命的な刻印がある。いわば最初の当たり前の基準。母親は機嫌の良しあしで物事を決めるものだから友達の家に遊びに行くときはタイミングを計らないといけないとか。

 

家父長制が悪だという言説を、Twitterでもホモサピエンス全史でも見たのだけど、こういうジェンダーバイアスってほんとに悪いものなのかな。「お母さん食堂」が女性は家庭で料理をするものだっていう固定観念を助長するから名前を変えてくれという署名活動があるとか。どう名前を変えて欲しいかは提言しない辺り、主人という呼称に対するクレーマーと同じ。嫌だ嫌だでは何も始まらんでしょうに。

 

僕は、社会レベルでの家父長制はシステムとして善かったのではないかと思っている。ここで言う善きは効率とか合理の意味。でなければ社会と断絶している部族でもこの制度が蔓延する訳がない。個人的には全然好きくないのも確か。

 

これが法律レベルになると憲法違反だろうけど。他人を殺すよりも親族での年長者を殺すことの方が刑罰が重い時代がかつてあったのだけど、こういうのはよろしくない。この法律を変えた事件はほんとえぐい。

 

家父長制って、社会のステージに上がれるのは男性だけで、女性は男性の所有物だという規範らしい。ホモサピエンス全史では戦争する特権は男性だけが持っていたとか書いていて、徴兵されて死ぬのが特権なのかと。政治の指導者は男性が占められていたということのだけど、なんというかかなり狭窄的な視点だなと。

 

生活には社会生活と私生活があって、社会生活では男が主軸になっていたとしても料理=女性だとすれば私生活の主導権は女性が握っていてそこにはパーソナリティが働いていたはず。男子厨房に立ち入らずみたいな感覚は地元では普通にあった。

 

家父長制の家督には責任が伴う。その責任のために女性があてがわれていたのかもしれないけど、とうの女性に家族を養うという責任が芽生えるのかどうか。母親は家父長と家母長を兼ねていたからとても厳しくならざるを得なかったのも分かる。

 

社会生活と私生活のどっちが優位かって測れない。外から注目された方が価値が高いという意味も良くわからないけど、人格の固有性と外圧ってほとんど関係ないような。外から観える自分が完全な自分である訳でもなし。内的な自分がありのままでどんな他人にも見られるようになるってどんなファンタジーだろう。

 

何をもって自己実現かは人によるし、自己実現しようとする人は法的障害がない限りやると思う。

 

で、役割を表す呼称の言葉狩り。呼称はもともと記号を示すものだから、どこまで狩っても属性は付着する。なんだかファンタジーであった図書館戦争の良化法みたいだ。

 

役割としての分類の呼称は基本的に思考経済上のものだと思っている。自分を主語にするときに、固有名詞を語らなくても良いようにするための「I=わたし」だし、兄とか妹とかも代名詞にして外に伝わりやすくしている。

 

女性にまつわる呼称ばかり問題にされている感じ、とうの女性が囚われる感じがしないでもない。兄妹関係にはなんにも言われないもそうだし。

 

まぁ、ジェンダーバイアス的な呼称が差別構造を強化するということなのだろうけど、個人的に、思考経済上ショートカットしたものをもう一回自分の脳でやる覚悟はあるんかって思う。いちいち他人の固有名詞を覚える思考コストを消費する覚悟もないのに、自分だけ固有で捉えらたいとはなんともおこがましい。

 

個人的には何の問題もないけど、脳をなるべく稼働しないようにしてきた人類が他人を自分と同じ標準で優先するのは難しいと思う。言葉も揺れ動くものだし、普遍的なものでもないとしても、言葉を無くせば観念が覆るというのはなんとも短絡的。

 

言葉で概念が創られたのではなく、概念を言語化するために言葉が創られた。バベルの塔みたいな話だ。言葉の重みは記号とは別の次元にある。

 

年の瀬になんでこんなことを書いているのだろう。

 

僕が好きな人の言葉が好きなのは、誠実っぽいから。もうそろそろ、いい加減うざいですって言って欲しいのだけど、なかなか現実化されない。

 

僕としてはたまたま出会った面白くて好きな人で、本当に抱きしめられるとか、交流は在らなくて良い非現実領域なのだけど、総合的にこれが違いそうだとういう感じが否めない。

 

明けましておめでとうとか書きたくないな。

 

僕は自分が自分だけで確立していると思えるほど自分至上主義ではなく、自分の振る舞いは関係に影響されていると節があるから、人に対してもそう思うのかもしれない。

 

えいきょうされない関係であれば対人ではなく対物だろうと。

 

今日は好きな人に個人的なメッセージは送らなくて済みそうだ。

 

では、明けましておめでとうございます。今年もよろしくなんて確証はありませんので、気が向く限りどうぞよろしく。

 

 

おやすみなさい。