対立

 

 

世界が静かな感じ。元旦でスーパーは休みだからコンビニで買い出し。女性の二人組が仲良さげに歩いていて「星が」というフレーズだけ聞こえてくる。見上げると確かに綺麗だった。ほんわかした気分でコンビニに行くと何故か入口に2世帯分くらいの家族が集まっていて入り口を塞いでいた。せめて入口から外れたところで集え動線を確保しろと少し嫌な気分になる。社会生活ではなく私生活なのだろう。確かに境界領域ではある。他人は居るけど社会の監視はないところだから道徳とされるものが管轄している所。道徳観というより想像力のような気もする。

 

想像力の欠如は人間のあらゆるものと通じているのかも。

 

さておき。

 

本日はカップお蕎麦を食べ、民事訴訟法の専門書の章末問題を文章化していた。要約・編集だから創作性はないとはいえ何にせよ書くという行為は負荷がかかり、この負荷が心地良い。語義が厳密な世界だから自分の言葉に引き直すことはできなくてやや窮屈ではある。要約していると文体の癖とかもインストールできて楽しい。

 

調子が出てきたからこのまま公募の方の文章も書こうかとふと思ったけど、元旦からメール送るのも宜しくないという倫理観により断念した。個人的メッセージを送らなかったのもこれなのか。僕はあくまで関係者ではないもの。このフレーズを書くとき体が切なくなったがそういうものだ、納得しよう、体よ。なんだかんだ社会における関係性の振る舞いを気にする指針はあるのだよな。もはや今更という感じだし、クリスマスは悪手だったな。

 

という感じで、ふと思ったこと。僕は「何かについて書く」ということが好きなのだろうなということ。何かについて書いた自分と素朴な自分は断絶しているという考察に続く。そもそも頭で考えていることと書くことってあんまり連動していない。書くことでは嘘を付けるというからみたいな表層的な意味合いではなく、もっと根本的な溝があるような。

 

日記を書く効用には過去の自分の思考と今の自分の距離が測れるという説があったことに対する疑義はいつか書いた気がするけど、なんで、「言語化された」自分の中身がその時の中身と認識できるのかという疑問。言語化されてない中身の方が圧倒的に多いのに。

 

ここで、最新のnoteのモニュメント=証明という説が浮かぶ。ここを基準とすると、過去の自分がその時の自分として残したかった記録を未来の自分から見てその時の自分とする。全部覚えていられないのは当然としても、なんだかこの日記論って過去を侮辱していないかとさえ思う。

 

たしかに証明の概念って、ある物事が真実(現実)であるということを他の物から推論して確かにそうだったとするもので、常に過去に向いたものではある。裁判だと心証形成とか言う、過去に何かあったとするのが正しいとする動き。ただ、現在進行形の記録の言語化として、言葉を取捨選択するし、なんならちょっと虚飾も加えるかもしれないし、何を記録するかどうか自体が記録の前に居る記録を決める自分の動きでは。

 

僕は自分の過去の日記は編集用に前日分しか読み返さない(昨日は誤字がひどかった)し、日記に自分の中身が全開示されているとも思っていない。きっと姿勢の違いなのだろうけど、記録の公開には自分を伝達したいという動機があり、社会に観測される可能性を前提とした社会的自分観なのだろう。僕もこれで書いていた時期はある。同じような根がある人を見つけるレーダーみたいな。

 

そもそも論だけど、僕は思考に言語を用いてないから、言語を扱うのがとても苦手なのがやっと分かった次第。どれだけ言語化しても自分の脳とか知覚の動きの一部でしかなく、これが自分と同一視できることが分からない。嘘は言わないことくらいしかできないのでは。僕の捉え方だと、言語は自分を共通語彙にできるところにひっぱり上げるための道具であって、ほんとの中身はもっと概念とかイメージとか抽象的に世界を捉えている。もしくは印象か。印象はどれだけ言い回しを変えても1つだもんな。言い回しの丁寧さはその印象をどれだけ大事にしているのかという証左にはなるけども。

 

ここはある意味社会性を獲得するための職業訓練みたいな意味合いがあるのかもしれない。まだ全然参加できる気がしないが。

 

情報の体系化と脳の情報の収集は全然違うと思う。人間の脳は情報を体系的に想起できるようにはできないから訓練が必要。学問はほとんどそう(人文系は知らない)。素朴な脳はもっと自由で、常に何かの過去と連想している。これってきっと生きるためには必須だったのだろうな。過去の経験の結果の良しあしとの類似の今があったとき、すばやく安全か危険か参照できるように。

 

過去の出来事とか記録を忘れるのは、あえて記録が想起できるようにはしないけど無意識には残しているという意味ではよくできている。腰痛はあえてトラウマ体験を想起しないようにするためにという弊害もあるみたいだけど。

 

 

表現としての言語の効用はとても分かるし一般論としてはここが大事だと思う。ただ、僕はそういう風に言語を扱えたことがあんまりない。自分を伝えたらどうなるかの方が気になって、自分を素朴の表明はあんまりできない。自分の表明って、あくまで対象にどう捉えらたかという操作できない領域にあって、主体的なものでもないし。

 

心はどこにあるのかという命題で、間にあるというのを何処かの漫画で見たのだけど、確かに絶対的な自分はそもそもないよなと思う。感情も知覚も思考も対象がないと起こらない。別に人でなくても構わない領域。

 

争いと代名詞がたまたま繋がる。しかし、なんでチラシ画像のモニュメントは白い三角形なのだろう。人って三角形とか円との完璧な形好きよね。(広島の原爆公園にそんな建築物があったような)

 

ホモサピエンス全史で、「私たち」と「彼ら」という分類があった。まさに争いのタネみたいだなと。そういう分類によって戦争が実際あった訳だし。争いの前提には同種だけど何かが違うという、文化の切り分けがあるような。ある程度同じものが共有されていないと起こらない。ペットの犬とは争いは生まれないけど、野犬とかイノシシとか熊なら動物という同じ水準がある。

 

同一水準ということは、その水準で椅子を確保しなきゃいけない何かがあるのだろうな。命なら分かり易いけど、他の価値ではどうなんだろ。

 

何かを選なきゃいけないというのが本質な気がする。

 

争いの概念が入ってくると僕は一刻も早く退場したくなるので、あんまりしたくない。お互いの中心での対立は良いってフロムさんが言っているけど、そんなことできたこともないし。

 

では、おやすみなさい。