ひとのこと

 

 

 

深く眠ると、朝一の挙動がふわふわする。途中で目が覚めなかった。寒いという前評判だったからマフラーを装着して出発した数分後に、マスクを装着していないことに気付く。ほんと頓着しない奴だ。個包装のマスクを1個だけ常備していたから事なきを得る。

 

どうでも良いけど、書いていると自然に時制が変わる(変える?)の面白いな。竹取物語でも今は昔と始まって「けり」と「き」の語用があったけど、そんなやつ。これはきっと書いたな。時制と語尾の揺れは意識してみよう。

 

さておき。

 

 

生身の人は情報量多いなと思いましたまる。ただの仕事日で何も変わったことはないのにそんなことを感じていた。どこまでさばけるかの限界を施行している。仕事上人の名前がディスプレイに上がって来るのだけど、人の名前のカタチって面白いよな。整くんは字面を見ているみたい。糸へんの名前って賢そうですよねとか。僕はなんというか付けられた願いが気になる。

 

名前で気になると言えば、姉の名前は長女だから父親の名前の1文字を取っている。あぁ思えば、父親も長男でお祖父ちゃんの名前を1文字とっていて、お祖父ちゃんの名前からとってない方が継承されている。そうして姉が自分の長男に名前を付けると時に、僕の名前をとって良いかって言ってきたこと。僕のこと嫌いだろうに、僕に当てられた名前には何か承継があるのか。家族が嫌なら僕の名前なぞ付けようと思わないはず。いや、我ながら良いカタチだと思うから名前だけとるというデザイン性という可能性もある。下心付きだけど。

 

そう考えるとハンドルネームの名付けも面白い。僕は自分の名前と繋げたハンドルネームは付けようとは思わないし、てきとーに付けてきたけど、ここのところは硯が語義的にもカタチ的にも良い。たまたま読んでいた小説の主人公の名前とか付けていたあたり、やはり電脳世界と現実世界はあまり連動させていない。

 

脱線から戻り。

 

昨日の文章はなんだか偉そうだなと思っていたけど読み返すとあんまりそんな感じはしなかった。ただの1つの別見解なだけであって他者を否定するような意図はないのに、話過ぎるのは良くないという根がある。

 

発達心理的に自分を遡ると、何かを話す方が損だという集積がある。話したいけど話せないとかではなく、話さない方が良いという文脈。まぁ聞く方が重要だから別に何か話したいことがある訳でもなく問題はないのだけど、あんまり開くと、相手の世界観を壊しそうだし、相手の中に集積された僕像も壊れるよなという変な自意識。

 

これってなんだろうな。なんとなく人は地雷だらけだという経験則からの推測があるのかもしれない。大丈夫だと思って発言したら駄目だったりする失敗の蓄積から、だったらやめとくかとなる。人を聞くのは楽しいから別に交友に不都合はないのだけど、では、自分とはなんぞやと整理中。

 

会話は確かに、自己確認のために行われることが多いけど、フロムさん曰く、「持つ人」のやり方らしい。自分の言葉は人格が持っているものだし、相手の言葉は自分が持っているものを奪う可能性がある。

 

ちゃんと自分の言葉だけど自分とは無連動として会話できるならたぶん楽しくできる。自分のことは自分が分かっているし、相手のことは相手が分かっているのだからそれを踏まえれば。

 

 

僕が思う自分の理想像がなんとなく更新。僕は注意深い人になりたい。それを行動するとか発話するとは別に、気付く人。自分にも気づくし他人にも気づければ。こういうのはもともとやっていたはずだけど、越境になりそうだから閉じていた。

 

この文脈で、人は人のどの部分を人として捉えているだろうという考察をnoteに書こうという衝動が起きたのだった。自分のどの部分を自分とするかが人を決めているという話。ペルソナ=役割的義務像を自分とするのであれば、自分にとってよりよい役柄が近くなるし、どちらも交換可能性がある存在。好きな人が「今の同居人」と書いていて、じゃあ昔にもいたのか、そうだろうなとかという読み方。

 

で、何処にも現実化されない自分を自己存在としたら、他人は世界にしかならない。大衆はゾンビになる。中間で、私生活で現われる自分を自分としたとき、生活圏に居る人が「私たち」でその外にある人は「彼ら」になる。彼らは無関係の世界の1部だから、同情が生まれる。共感は「私たち」のほうか。

 

僕はというと、ペルソナ的な自分も面白いし、何処にも開示されていない自分は誰にもやらんと思っているし、中間領域はあくまで自分が決めた圏内ではないから他人だ。

 

ペルソナ程人工的なものはないから、もっと遊んでいい。

遊ぶというのは逃避ではなく試行ね。この文脈でも、好きな人はとても好き。好きな人がどの領域に入れているかによって開示具合が変わるからそこは注視しているけど、僕は好きな人が何かしてくれたから好きが継続されている訳ではない。開示が継続されているのは別のところ。なんかペルソナ外れてないかと感じる不思議。

 

(そうでなかったとすれば、僕は単なる意味不明な読み物である)

 

読んだところから思ったことはいっぱいあるけど、時間制限があるから絞って。

 

朗読者で、主人公が裁判官と面談するシーンで、自分の経歴を詳述して、もう一回それをするとしたとしても同じことをすると言っていたことから。

 

これが未練がない生き方かとも思うけど、僕が自分の時系列をもう一回辿るしたらどのセーブポイント(モニュメント?)でも、同じことはしない。その時の最善だったとしても、情報量が増えた今で同じことをするわけないやろ。ただ、できなかったことに対して後悔とか後ろ向きな気分は起らない。もしかしたら誰かと婚姻になっていたりするかもしれないし、もっと違う生活をしているかもしれないけど、それが果たして良いのかとなると、なんとも言えない。

 

過去に未練があるであれば、同じ轍を踏まないように今以降に傾注するべきでは。これは語彙の違いだけであって、別に今以降を大事にしているけど、過去を供養するために当てる単語が違うだけかもしれない。未練ってなんだか引きずられているというニュアンスがあるので。

 

変わらない過去に対する評価なんてなんとでもできる人工の概念。過去はキラキラしているのかもしれないけど今の方が大事だから、物理生活上では切り捨てるとか。

 

今で言うと、好きな人だけは僕の現実においてイレギュラーかもしれないな。

 

何も現実的に関係ないのに、ルーティンに行動が割り込んでくる(例えばもっと読みたくなるとか)。だから早くいつかにしてくれと言っているのに、一向にそんなことがない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。