わきまえ

 

 

 

お風呂から出たら母親から1時間前に着信があった。来週から遅番のため23時だしこれからご飯だし折返しではなくLINEにしてみる。元気かどうか気になっただけでしたとのこと。分かるけど、こういうものに温かさ(暖かさ?)を感じることはないだろうなという感じがある。理解はできるけど暖は取れない。心配は安心するためにあるからあくまで一方的なもの。つまり、逆なら暖が取れる。

 

添付された画像によると、実家の付近はまぁまぁ雪が積もっているらしい。母親も引っ越して独り暮らししているから無関係。しかし、画像の場所がどこのものか分からないという。推測はできるけど、がけ崩れ防止のネットって張ってあったっけかな。

 

さておき。

 

休日1日目は稼働率が低い。雑炊を作っている最中に鍋の蓋を割ってしまった。あーあという感じ。まぁ1人分の鍋はス手鍋で作れば良いしほとんどがっかりはしていないが。色々捨てなきゃな。自分の為に生活上の環境を整えるということが優先順位全然高くないから、無理やり上げないといけない。

 

職場の雇用の切り替えの関係で履歴書も書かないといけないし、そろそろ劇評の公募にも応募しないと。履歴書は確かフォーマットのデータがあったはずだから少し加工すれば良い。別に応募の書類ではないから志望動機は要らんよな。たぶん経歴だけあれば良いはず。公募の応募の方は、もしかしたら顔パスしてくれないかみたいなところはあったりして、文章データは余剰でなんか書きたいなという感じ。割と引っ張っているのは、応募多数で漏れましたという世界線もあるかもなと思っているから。だったらちゃんと課金できるし、感想文も自分の中で書けるし。まぁどっちでも良いこと。そもそも僕は自分の文章が他人から美味しいかどうか分かることは永遠にない訳で。

 

世界がどんどん面白くなっているのは、遊びが増えているからだと思われる。別に何か経歴が増えたとか、何処かに行ったとかでもないけど、1人で読んだり見たりしてやたら笑っている。直近の元恋人さんが「ほこりを被っている」、好きになってくれた男性が「貴方はもっと笑えるようになる」と評してくれたようなやつ。なんだかすごく頭がすっきりしてきている。

 

好きな人に対する諸々で悲観的になるのはやめとこうと思う。人をつぶやき場にするなという発言がTwitterにあって、おぅ、もしかしたらそうかもしれないと1瞬ダメージを受けたけど、別にごみ箱にしている訳でもなくそこ以外にはない言葉だし。いや、全然要らん人から発信されてもごみだから、そういう線は捨てていない。捨てても良いと思うけど、暖はもっと前にあるので。

 

 

どうでも良いけど、僕はどこでも僕を読む人の量より、誰が読んできているかの方が気になっていた。読まれて嬉しいという程に文章とは癒着していないから、どうして「この人」は僕を読みに来るのだろうという、読みに来る人を読みたい感。読んでくれて感謝みたいな気持ちはないです、どちらかというと時間を無駄にさせて申し訳ない感。ほぅ、奇特な人だなという感想はあるけれど。奇特という単語は小学校5年生の時の担任がよく使っていて、音としては残っていたけど漢字が当てられたのはずいぶんと後だった。

 

奇特な人は大歓迎です。

 

呟き界隈を見ているとよくもまぁ自己を肥大評価できるものだと思うけど、言葉の機能の1つだと思う。神話とかにあるように、虚構でつじつまがあったストーリーを作りだすことができる。なので、言葉自体は特に現実においてもそんなに重みはないよなと思っている。利害関係があれば、人はいくらでも優しくなれるし、慮った言葉も吐ける。現実において大事なのは、言葉と体が連動しているかどうかだと思う。言葉だけならいくらでも良い風に見せられるから、その言葉がいつ現実化するのかを見ている。

 

当人もう絶対忘れているだろうけど、数年前、大学時代のコンビニバイトの後輩が突然電話をしてきて、バイト仲間を集めて飲みましょうとなり、それ以降一切連絡がなかった。そんな軽い言葉で営業マンはやっていけるのかいな、いけるのだろうな。

 

利害関係がない言葉は信用がおける。noteで短歌を投稿している人が唐突にコメントくれたのはとてもほっこりした。ちゃんと自分と言葉を分けている人だなという感じ。分けているから作品と癒着できるのかもしれないという思い付き。

 

ちょっと置いて。

 

あくまでも僕の体感だけど、人の頭の中には鍋がいくつもあって、並行的に煮詰めている。それは普通意識化されることはなくて、何かの拍子に想起とかアイデアとして意識に可視化される。で、頭をすっきりさせるというのは、外に対する賢さではなくて、この頭の中にある鍋が見えることにあるのではという感じ。これが分かれば人の頭の中にも鍋があるに違いないとなる。

 

そういえば、僕は現実世界において発話量がやたらと多い人って信用がおけない。大学時代からその後も少し関係があった知人がいつもテンションが高くて、発話量も多かったのだけど、この人が何を話したかって全然残っていない。共通項としてはコンビニバイトの先輩もそんな感じだった。人をいじるというか、攻撃して自分を保っている感じ。今思うと何かを必死に隠そうとしていたのだろうけど、2人ともパートナーは持ったみたいだからまぁいい人生なのだろうな。知らんけど。

 

でも、この手法ってやろうと思ったらいくらでもできる。もうやめました。

 

僕は身の丈の言葉しか使わない。外れると反射でダメージを受けるので。

一生好きならそうだし、やると言ったら現実化するし、ある意味予言みたいな作用もあるのかもしれない。理想としては、体の動きと同じくらいの操作性があれば。

 

発信としてはそれくらいの連動があるけど、受信されるのは勝手だから評価とは連動しない。誰がどう見たってどうでも良いって表現者の矜持みたいだけど、僕は僕がちゃんと固有であると決めただけ。だから他人も固有に読むことができる。

 

そもそも他人は操作性がないものだって自覚できている人はどれくらい居るのか。何か序列があれば操作ができると思える人はそもそも自分を操作できていない。自分が操作されないことが自然でも良いけど。

 

ここで、道徳の授業で、どうやったらいじめがなくなるのかという作文を思い出す。

 

当時の僕は、全員が自分は人よりちょっと低いとして他人を敬うことができればいじめは起らないと書いていた。これは人は自分より上位だと思う人にしか尊敬できないという当時の世界観の中の価値観だったけど、今の普通の人間にそれができないとは思えないということで、見解は当時と変わっていない。いじめが起こるのは大人がそういうイデオロギーを是としているからって分からないのかな。

 

自分が足りないことを埋めるために他人を糧にするから戦争が終わらないのでは。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。