足りなさを知る

 

 

 

冬の空気は明るい街の夜空でもはっきり星を見せてくれる。斜めに3つ、ポチポチポチ。少し離れて囲うような4点。オリオン座だったなと思い付き、間違っていたら恰好悪いので調べて確認。

 

小さい頃星とか神話は好きだったけど、星座についてはどう見てもその形が星の並びに結びつかないだろうと思ったのだろう、全然残っていない。大三角形とか天の川とか分かり易いのなら。しかし、本日オリオン座の並びを見上げると何か意味のある形に結び付ける気持ちも分からないでもないと思う。確かに何か意味深ではあった。

 

それにしても、何も起こっていないものを終わらせるってなんとも哲学的よな。いや、たしかに現実的には何も起こっていないけれど、僕は言葉を綴り続けた。具体的にはもはや日記の原型を留めていないここだけにするような感じ。他人で暖を取ってはいけないよなと自戒。とてもファンタジー的だったな。

 

僕が勝手に暖を取っていただけで、僕の言葉には温かみはないよなぁとなんとなく思った。言葉ってきっともっと体温があるものであるような。平熱は高いのだけどそれは言葉には移動されていない気がする。こんな非人間な僕でも「報い」の観念はある。ただ、僕にとって良いことをしてくれたから返そうではないところが変。例えるなら、僕が瀕死になって生還したとして、命を救ってくれたのがお医者さんだったら仕事としてやってくれてありがとうございますとしか思わないし、報いの対象にはならん。いや、これは一般的にもならないか。他人の自発性に対して報いたくなる。そういう言葉の方が信用が置けるし。

 

なんだか、自分が変だと思う人に対して、その変さは個体差であって特別なものではないという言があると思うのだけど、精査していけばいくほどやはり変だなとしかならない。固有の変だから、変な自分が特別みたいな選民思想は生まれないのだけど、きっと共同生活には向いていない。

 

本日の工程。

 

午前中は刑事訴訟法における言葉での証拠の扱いについて考えていた。人が発言した事に対する信用度って一般的には凄く高い。一昔前(今も残っているだろうけど)の刑事裁判は自白を採ったら犯罪成立みたいな向きがあって、拷問によって自白させるということが蔓延っていた。人の発言を事実と混同してしまうことは人として備わった機能なのかも。そこで今の刑事裁判では、人が発言する過程で誤りが生じることを踏まえて、注意深く規定している。具体的には、人が過去の現象に対して発言するとき、前提として、その事象を知覚して、知覚を記憶し、記憶を基に言語化する訳だけど、知覚が正しかったのか、記憶に齟齬はないか、嘘を言ってないかを裁判でチェックした上でしか証拠にしないことにしている。もっと具体的にすると、宣誓させる(嘘を言ったら罰則)、裁判で発言させることで態度とかしぐさを観察する、矛盾がないかを反対尋問でチェックする。

 

とても合理的だけど、ここまで意識して発話している人はおらんよな。それくらい発話には主観が混同されているという歴史的経験則なのだろうけど。

 

この文脈で、報道される事件だけどあれって別にそういう事実があったということではない。そういう事実があったというストーリーを検察官が主張しているということであって、それが無罪になったということはそのストーリーが証拠から認定できなかったというだけ。印象操作が過ぎると思う。もう何年もニュース見ていないけど。

 

言葉についてはまた後で。

 

そういえば、仮定的ストーリーとして1つ思い浮かんだこと。演劇1作目には劇評は公募されていなかったけど、それ以降は公募がある。もしかして好きな人が何か働きかけたのかもしれない。普通に読んだらなさそうだけど、僕の中のこの人はやらかしそうな気がする。考えていないとか言いつつ凄く注意深そう。別に深くなくても良いんだけど。

 

劇評を書いた人を見ていたら僕と同じく皆勤賞の人が居て、肩書きが教育学部の教授だった。文章はなんというかまだ読めなかった。教育学って何を研究するのだろう。児童心理学はありそう。教職取ってないからノータッチなのだけど、定量的に教育効果を把握するのであれば、経済学と似たところがありそう。ただ、学習指導要領の設定に影響できないのであれば、なかなかもどかしいだろうなとも勝手に思う。先生には個別に学童を把握するなんて許されてないし。義務教育で教わる知識が最初の社会的当たり前だから、教育を学問するって社会学とか政治学とかも絡んできそうで想像するだけで大変そう。

 

童話による教育論というか言葉について考えていたときに頭に浮かんできていた童話。

 

オオカミ少年と裸の王様。言葉がどれだけ恣意的に事実を操作できるものなのかの教訓がある物語だよな。今の子供って童話読むのだろうか。まぁ漫画でも代用できるか。

 

人の言葉に信用を置いていないのは、それほど人って言葉と体を連動させていないというトラウマ的な経験則による。その部屋にまだ住んでいるのだからそれほどトラウマでもないのだろうが、当時はなかなか大変だった。

 

そうして、本の師匠がまた出てくるのだけど、僕が心理学を読んだらもっとやばそうみたいな評価をいただいたことがあった。(童貞喪失する時に初めてではないだろうと言った人は別の人)

 

というところで見ると、僕は人の話を聞く人だから、どんなに突拍子もなくてもまるっと受け入れるけど、ほんとに見ているのはあるがままのその人ではとなる。別に意識的に観察している訳ではないから、言語的には気付かなくてだいたいが後の祭りになる。

 

自分が遅いという観念の源泉。

 

言葉は確かに便利な道具だけど、僕は不自由の権化だと思っている。伝達として使うのはもちろん、自分を把握する道具としても拙い。自分の表現ではなく、自分の探索にしかならない。

 

 

やっとこさ、ホモサピエンス全史は下巻に入った。面白い。人類の統一には、帝国、貨幣、宗教という発明があったとか。分かるし、僕も利用しているけど、あんまり関係ないな。

 

宗教の原初はアニミズムというところで、神様は自然と人間を媒介する法的約束だというのが新鮮で面白かった。神様は現実的現象に寄与する存在ということ。生贄とかお供え物とかまだ素朴に信仰している。でも、想いの証拠としては分からんでもない。

 

では、現代人は何が現象に寄与していますか。それについてどう証拠付けていますか。価値を外に置くようになったのは貨幣の支配だと思われる。

 

最後かな。

 

願いと祈りの峻別。

 

願いは対象とどうかで、祈りは対象に対して無責任で良い。なるほど、祈りが嬉しいというのは、自分が返さなくて良いけど、他人が自分に費やしているという文脈か。今のところ一番近かった人も毎日祈れみたいなことを言っていた。奉仕されていることで自分を保つ、いや、なんか違う。

 

まぁ、僕は祈りに対して、勝手なものだとしても何か作用するものがあるのではないかと思っていて。現実的に相手の血行が良くなるとかではなく、魂のところ。

 

最後の最後。

 

僕が素朴に近くなった関係で嫌だったのは、愚痴とか疲れたとか負の言葉が現実化されていること。僕も疲れないといけないのではないかというか、疲れるのが普通のことだと合わせてしまう。愚痴が完全に悪いとは言わないけど、言葉はまず自分が見ているということが把握されてないよな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。