ありよりのなし

 

 

次の本の目星も付けた。「思考の地図」という、歴史人口学者?さんが書いたもの。ホモサピエンス全史もフロムさんもこの話題棚なのだけどなかなか熱い棚だ。

 

うーん、なんとなく言葉があまり出てこない感。思いの外寂しいというか、無力感。確かに肉体を枠にすると人はとてもちっぽけだ。やはり感情にはなかなか操作性がなくて、感情込みであんな思考をしていると変なことになる。

 

自分に有用性とか効果があるとなんで思ったのだと。

馬鹿みたい。

 

こういうときはたぶん書かない方が良いのだろうけどスケッチしてみる。

 

さておき。

 

1日は問題なく。

 

夢で電話がかかってきた。母親が取次いでくれたのだけど、最終回の人とのこと。寝ぼけて取ったら、私のこと分かる?○○です、と。むにゃむにゃしていたら、なんとなく誰か分かった。中学校の時の同級生で高校以降一切会っていない女の子だ。折に触れて元気かなって気になる。電話では苗字が変わっていて大変みたいだけど元気だった。某宗教の家系だったのだけど、話している限りそんなことはなかったし、なんというか、人間的に安心できていたのだろうなという感じ。そんなに会話をしていたという記録もないのになんだか印象として忘れられない。ただ、名前の漢字がなんだったかなというのが特定できない。他のどうでも良いクラスメートは割とフル漢字で再現できるのだけど。

 

記憶として再現できないものの方に気持ちが向いていると観測できる不思議。この人といつもつるんでいたもう1人は同窓会で会ったけど、なかなか面白い人物だったな。

 

全然利害関係ない人に対して元気かなと思う自分を観測するとちょっと暖が取れる。

 

仕事は、ややこしい案件が多くて、そうすると上司に聞かないといけなくて、先輩もぽんぽん聞いている中、なかなか割り込めずなかなか自分の人間性は厄介だなと観測した。雑談での話題も殺伐としている。空気を読んでそれより楽しいこと話せば良いのになんて言えない。居場所はなくても良いけど、狭いのは嫌だな。

 

帰ってからの方がかえって生き生きしている。着替えて活動するまでにラグがない。工程としては、刃牙道、民事訴訟法、民法憲法行政法を1時間で少しずつ読んだ。生活と繋げて面白いのは、あんまりないな。あくまで有事のルールだから。

 

そこから弁当作って、お風呂で本を読んで、ここに至る。雨が降っていたから弁当は職場の休憩室で食べたのだけど古参の先輩も休憩室にいて、休憩が終わった後に席に着いたら横目で見ていたのか、毎日弁当作ってるん? はい。 偉いなという下り。ぼそっと、暇なのでって呟いてしまったけど聞こえたのかどうかは分からない。なんのこともないやり取りだけど、偉いと評するくらいなら気にかけなくても良いなと思ってしまうひねくれ者。偉いって比較に遣う言語だし、僕は誰かと比較のために毎日ご飯作っている訳でもないし。

 

負に寄ると世界がこんなことになるから嫌なんだよな。良い時だったらたぶんなんとも思わない。こういうのは相対的自己不信が優位になると起こる。この文脈では、人って人に対して何も言わないだけでもしかしたら僕と同じくらい人を見ていて、僕の観察眼なんて大したことないという想起が生まれる。

 

パートナーで充足しているのに、もっとファンが欲しいと公言している人を某所で見かけて、なんでそうなるのだと思ったけど、そういう貪欲さが本質なのかもしれない。好意の収集ができるということは、個人的なパートナーに対しても同じ指標で捉えた上で、一番価値が高い人ということになると思うのだけど、おそらく二重の基準が働いている。ここがよく分からない。人は人でしょう。僕が具体的に捉え過ぎなのか。

 

好きな人もこれだったら良いな。

僕が見られない日記のところで、変な奴がまとわりついているという苦言を呈していてくれれば、なんとも楽になりそう。僕は別に思いやりがある人物ではない。唐突に冷める傾向もある。個人的関係において抽象化ないし自分を充たす道具とされたと感じたら誰でも良いんでしょうとなる。

 

でも、実際の生活において人を自分と同化しないでおけるなんて無理では。僕もこの見解になった後やったことがないから不明。放屁すらできないし相手を尊重し続けるって普通に考えて仕事より大変だと思う。楽になるためのパートナー関係が普通だろうし。

 

寝るときだけ同衾がベストか。

僕が相手を甘やかすのは良いのだけど。もうそろそろ終わりなのに、好きな人の頭を撫で(略)。

 

 

思考については、それぞれの本の見解が錯綜しているからなんとも。意識がどこにあるかなんて定義する必要はあるのかどうか。

 

今ここにしか自分はないというのは心理学で良く言うけど、未来の事象において自分がそうすることが今決められるのであれば、もう、未来は今だし、今ここすら捉えられていないのが人だからあえて出てきた見解なのだろうな。

 

読むことも見ることも対象がないと在りえない。

 

 

うむ。断片的にしか言語化できなくなっているな。

負に寄ると、生活と言語化は全く関係ないのだから、あえてここを流通させる必要はあるのかとなる。必要とか意志とか分かり易い定義に寄りたくなる。

 

ほんと、閉じるときは完全に閉じるからなぁ。

 

では、おやすみなさい。

 

おしまい。