るつぼ

 

 

 

本日の夢は冒険風味。空を飛んで逃避行をしていた。実家が山の中腹くらいにあり、風景的に滑空したら気持ちよさそうだなという根があるのか飛ぶ夢は折々出てくる。ただ、何故かいつも誰かに追われている。関係ないけれど、夢は情報を整理するためにあるとすれば一向に夢に出てくれないというのは、整理したくない対象なのだろう。なるほど、これが現実的対象ということか。

 

鯖の水煮缶を買ってあえて味噌煮風味にした。最遅番の時間帯だとスーパーに生肉が残っていないのがデメリット。連日鯖缶になったからちょっと味付けを変更。あっさりだから深夜に食べても胃がもたれないのがメリット。

 

 

さておき。

 

今のアニメは「うしおととら」。妖怪バトル漫画みたいだけど、「生きている」とは何か、「心とは」というテーマな気がする。最後の「俺を食うんじゃなかったのかよ」「もう腹いっぱいだ」ってやり取りは思い出すだけで泣きそうになる。この漫画、初めて読んだのは家族でドライブに行ったときの飲食店の雑誌だった。どこだったのか、何話だったのかは覚えていないけど、残っている。

 

 

「思考地図」はやっぱり買った。かなり最近の書下ろしみたい。某事態にも言及されている。そういば、某宣言によって自粛にならないかと思い一瞬だけ情報をチェックした。5000人を超えるものでなければ自粛対象にならないというところを見て一安心。個人的には宣言があろうがなかろうが何も変わらないから調べることに優先順位がない。

 

「思考地図」の学者さん、印象としてはすげぇ自信満々な感じ。考えるためには前提となる知識というか情報が必要という言は分かるけど、この人は完全に知識は財産で溜め込むものなのだろうなと読める。分かるし、そういう目的があるこそ本が読めるというのも分かる。新しいことを採り入れた感動を衝動することが原動力になっているというのも共感できる部分はある。たぶん、歴史学が現実に起こったこと(事実)を対象とするものだからだろうな。でも、個人的には史実って事実なのかという疑問。歴史的事実ではあるだろうけど現実的事実と言えるのか。

 

僕が、ん?と思ったのは、思考のプロセスにおける入力段階について。確かに新しいことが入力されずに考えるだけでは思考は何処にも辿りつけないとは思う。ただ、入力することで頭の中を図書館にするというイメージは全然共感できない。ためこんだ知識を自分が持っているものとして、頭の中でその本を読むというのは分からなくもないけど、僕の心象イメージとは随分違うなぁって。結果的には同じようなところなのかもしれないけど、どれだけ読んでも僕は増えない。夜に月が浮かぶ海みたいなもので、知識は所有するものではないのだよな。

 

何かを考えようと意識すれば応じた概念が顕れるけど、これはワード検索したら出てくるようなインターネットみたいなデータベースではない。こういった概念は物質的な意味で持っている訳でもないはずで。調子の良いときには逆に出てこないとか、ある感情とか現実とか勝手に出てくるとか、いつでも手に持てるものではないから。でも、こういう過程は捨象されて、自分が思い通りに自分データベースから取り出されているという認識になることも分かる。だって、そうなってないと自分の努力が無為になるし。

 

あと、僕は読めば読むほど自分が軽くなっているし、自己観なんて要らなくなっているから同じ読書95%でも何か違うのだろうな。自分を補強する為とかどうでも良い。自分の面白さの為ではあるけど、面白いかどうかは目的ではなく過程だ。

 

勝手に連想されたこと。

 

朗読者の終盤で、主人公が収監された文盲の好きな人に、ひたすら朗読した録音テープを送るというシーンがあるのだけど、あれ、なんだか似ていると感じた。僕としては返答がないことのほうが好きな人の本質だと思っているから微妙なずれがある。僕に発したいことなんてないで良い。

 

あと、ホモサピエンス全史で「闘争」が出てくるのも僕の現実とある程度共通項があって、僕にとって現実的生活も読書も、「いま」なんだろうなとなる。

 

「あぁ闘争」の話なのかな。曰く、生物の存在意義は生存することで、そのためには闘争があり、闘争して勝てない個体は淘汰されるのが自然だ。ここに疑義を持つことは自然法則に闘いを挑むことだから負けが決まっているみたいなフレーズ。分かるし、この自然状態って別にここで言われているだけではなく、近代憲法が生まれる前にも言っている人がいた。人が何のルールもなく集団になったときには暴力が支配する闘争状態になるから、秩序付けるために国家が暴力を独占する必要があるという言説。

 

 

これって、確かに、命の奪い合いみたいな極限状態ならそうだろうなと思うけど、こういう意味の戦争がない日本でも争いが絶えないのは自然のインストールでは説明できないと思う。存在が拡張したから守るべき範疇も増えたという観念なら分かるけど、自分の精神性を保持するために、争いって本当に必要なのか。他のところを言い訳しているような気がする。

 

人間は良い言い訳をみつけたらそこに逃げてしまうと言っていたのは新刊枠の物語の登場人物。自分の所作・振る舞いに理由を言葉でつけなきゃいけないことはある意味逃避なのだろうな。

 

人が争うとき、いったい何を守っているのだろう。

自分が認識している世界が他にも適用できるはず、自分の突発的怒を正当化するため、守るものがないと闘争は起らないと思うのだけど。僕の文脈ではあくまで抵抗でしかないな。自分が自由であることって、他人との共通項を見つけることではなくて、自分と他人が違うから始まる。

 

僕にとって言葉とは無限の海から掬い取って取り分けた雫でしかないから枯渇することはないんだよな。掬えないときもあるというだけ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。