世界線

 

 

仕事場近くの薬局にしか置いていない、気に入っていたスキンケア3点がついになくなった。東急ハンズも探してみたけど見あたらず。メンズケア商品眺めていると、現実的snowみたいに加工する商品もあるようだ。確かに倉庫仕事の時にファンデーション塗っている若い子がいたな。また肌に合う3点セットを試行しなければ。オールインワンは最大公約数の妥協の産物だと思っているからあまり選びたくない。こだわりというほどの志向でもないけど。肌がかぴかぴにならなければそれで良い。

 

外の世界は無常だからいちいち気にしても仕方がない。しかし、内側が不変なのかというとこれも定かではない。自分の可動域。

 

まだ煮えていない鍋の蓋を開ける所業。ほんとはちゃんと無意識でまとまるまで待った方が良いのだろうけど、開けたところで中身は変わらない。

 

テーマが色々並行していて、どこから書くのかの決断が大変である。

 

仕事から。後輩のねちっこく話す人と少し雑談した。碌なことではないから内容は省略するけど、だいたいの人にとって発話って自分のことを話すことなのだろうなと思う。仕事で相手にしている人もだいたいそう。何日か前、同期とロッカーで対面したときの雑談も、僕から自分にとって有用な情報を収集するためだった。当たり前だけど、そうではない人も居る。

 

最古参の先輩と仕事上の雑談をしているときに、空いた時間はパソコンいじって新しいことを収集しているのでしょうって、自分に有用ではないのに僕を観察している感。僕が気になる人はこの文脈なのだろうな。短歌の人もそうだし、好きな人もそう。しんどくなければとという言葉とか、劇評楽しみにしているけど無理をしないようにという発話とか。無関係なのになんでこっちの方を気にしているのだって。固有の関係だと思えてしまう理由が1つ発掘。完全に他人だったらもっと律儀だろうし。

 

僕が現実的に人をどう見ているかというと、たぶん内輪の世界の外に人が存在しているということを見ている人が掬われる。どれだけ観察していても、あくまで自分の世界の物事としている人は流れる。僕の変さをただの変として認識できることというか。職場の先輩にはなんとなくすまんやでという感はある。特に煩わせてないけど存在として異分子さが。

 

そうして、僕は同期の所作を観察して勝手に大丈夫かなって思う。別に何かする気もないけど、なんだか危うさが見て取れる。ただ、こういうのって僕が勝手に観測しているだけでそれなりにふてぶてしく生きるのが人よなとも思うから、あんまり気にしなくても良いのだろうなという観測知。同期とねちっこい後輩は発話で本音全然語ってないなという印象が同期しているのだけど、そもそも発話ってそんなものか。

 

発話。僕は発話において自分を説明したり表現したりする目的がないから、声帯を稼働することが全然なかった。話さないことは内向的だとされているけど、別に発話することで自分を保つ必要がなかった。

 

今の仕事はある時点の過去の僕なら絶対選ばなかったもので、たまたまの縁だったけど、自分を表現しなくても良い=発話に傾注できるというのはとても楽しい。自分にはこういう可動域もあったのかという発見。僕は別に喋れないのではなく喋らないだけだったのだろうなと。中の自分はずっと考えていたけど、発話として伝えたい自分は無い。

 

でも、ここと切り離して話しても良いんだよな。というところで、発話としての存在の開示として、今度の演劇の時に質疑応答があれば創ってきた人たちに言いたいなって思うことがある。お疲れ様でしたというかありがとうございますというか。別に対話でもないし、僕はあくまで匿名的な観劇者だろうし。

 

それに、人は自分が思っている程他人の発話を覚えられない。流れていくもの。

 

僕の周りの環境だったのか世界線だったのか、まず僕の可能性を閉じてくる人がいっぱいいて、僕にはあれもこれもできないのか、そういう世界なのかと思ってしまっていた。ほんとやめてくれって感じだけど、人を閉じることで自分を保てる人も居るのは分かる。だいたいのことは慣れればできるんだ。

 

こういう意味でも、演劇はとても楽しみ。

別に存在に影響値がないとすれば、好きって発話しても問題ないんだよな。恥ずかしいから言えないというより、そこで何かが変わるかもしれないという危惧。このよく分からない予想値の中で決断することを勇気というらしい。どう決めたら良いんだろうな。

 

要は、発話と人ってそんなに連動していないということを実感として把握した。嘘はつかないけどもっと遊べそう。

 

そういえば、コンセプトについても考えたのだった。

 

人が発明したものは、全て目的ないし思想があるから、自分の存在についても意味があるものだとしたくなる。生きる意味とか目的に向かって生きる志向性とか。ここに神様が在る。

 

いやいや、自分が生まれたのは自然の作用であって、自然の循環の一部の物理でしかないって言われたら人間至上主義とか意識至上主義が出てくるかもしれない。でもこれ自体も発明品だと思う。

 

発明品ではない人間でしっくりきたのは、「命題的態度」という概念。

 

なんかいいことを言うとか良き言動をするとかではなく、世界に対する精神(ガイスト)。どう評価するかではなく、どう態度するか。この態度は、言語非言語含めた現象のこと。ある意味、継続としても良い。

 

あと、あくまで僕の世界観だけど、新刊枠でのファンタジーで、時が想いを忘れさせるというフレーズがあったのだけど、平均寿命の半分弱生きている限り、時の流れはそんな都合が良いものではない。蓋を閉じたって、受け入れていない限り折に触れて出てくる。今ではないけど今として。時間も含めて自分を外に任せてはいけない。

 

ここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。