死語

 

 

スタートがだいぶ遅れてしまった。物質的無常(水漏れ)の対処で遅れてしまった。なるほど、物質に偏向すると人も経年劣化なるか。思いの外費用がかかったが必要費(民法602だっけ)の償還で管理会社と交渉すればなんとかなるか。言葉と自分の切り離しの可動域。自分の知識を自分の為に遣う可動域もか。あんまりやりたくないという観念はどこからきているのだろう。

 

あぁ、予定外があったから応募メールは送れていない。休みは二日あるからまだリカバリーはきく。タスクを残しておくのが駄目なんだよな。負荷が重い。ただ、参照の文章に何を貼るかは全然決めていない。たぶん貼らなくても問題はないと思うからえいやーでいっても良いのだろうけど。

 

このえいやーは勇気の可動域。

 

さておき。

 

僕はあまり自分のことは考えなくなった。言語化はしているし操作性は気にしているけど哲学する対象にはならない。それよりも人とか世界の方が気になる。何をどうしたって自分は自分であるという認識からすれば、経年劣化は今のところない。体力は回復力とか持続力とかではなく、思い通りに動くかどうかだし。脳の劣化と肉体の劣化は全然連動していない。このことはもう少しして証明しよう。

 

ここのところ可動域という単語を遣っているのは、人って自分のポテンシャルを遣い切ってないのではないのだろうかという命題が浮かんでいるから。フロムさんが愛とは人の可能性を信じるということだとか成長を見守ることだとの言があり、期待という観念の中にはここは一部重なっていそうな気がした。僕の中では期待という単語は死語だけど、可動域とちょっと似ている。違いは、変化が予測値とか希望の範囲内か、そんなの無関係か。

 

そもそも現実における自己意識って、非現実も入り乱れている訳でどうなりたいか、どうあって欲しいか、どうしたいかとか、ぶっちゃけそれほど現実に依拠していない。空想と予想の分水嶺は現実的に在りうるかどうかだろうけど、中身の想起では等価で、現実化という命題的態度が違う。もっと相手が自分にとって都合が良ければ良いは自分を変えずに人を変えようとすることであって、空想の範疇だと思う。

 

要は、人は自分のことすらあんまり分かっていないということ。この文脈での期待は他人に丸投げの赤ん坊的精神性。社会的に大人でもこういう精神を持っている人は多い。

 

 

ところで、読んでいる本の中で意見の対立が真っ向勝負になっている。ホモサピエンス全史VS思考地図。思考地図曰く、人とは何かを哲学的に検討する前に歴史的事実をあるがままに研究することから人を見つけるべき。ホモサピエンス全史曰く、歴史的な分岐は特に人の意志が作用している訳でもない偶発性があるもの。

 

どちらも無意識的な人の集合体の話なのだろう。無意識にまず収納されるのは歴史というか文化だろうし。脳は私ではないでは文化は病原体みたいに言われていて、みつどもえ

 

たしかに、統計的に人を見るのであれば、歴史とか心理学なのだろう。僕が美だと思う世界もこういったものに依拠されているに違いない。無意識にインストールされているもの。

 

ただ、争いがインストールされているかというと、そうだろうけど疑義もある。

 

どうでも良いけど、最近好きな人に対してろくでもない「望み」が浮かんでいる。個人的に望みは叶わないもので、ただ、僕に関わらなくなるようになる望みだから、ワンチャンあるかと思うけど、現実的に起こりそうがない気もする。どれだけ考えても僕の現実予想はだいたいはずれる。法的に守られるから存在の継続が安定されていればという望み。

 

一般論としては語用として使うけど、自分の辞書の中から削除している言葉が増えてきた。

 

例えば、努力。誰かにこの日記が努力だって評されたら吐き気がしそう。

継続を表現する言葉の1つだから結果としては変わらないけど、この言葉って犠牲という観念が付着してそうで嫌だ。

 

犠牲は未練と似たようなもので、経済学用語でいうと「機会費用」という。他に大事なものがあったけど、それよりもこっちを優先した。

 

と、好きな人が思っているのだとしたらさっさと離脱できるのだけど。

 

今日はスタートが遅かったから言語的にはここまで。

 

おやすみ。