認知の軽重

 

 

心の重さはどうでも良くなった。というか、重きを置いていない部分に傾注しないといけない状況に枷を感じているだけだった。この水準だと確かに生きていられない。

 

 

さておき。

 

やはり夢には出てきてくれない(嬉)。中学校の朝礼に遅れる夢。今思うと学校生活って、ほんとそれが全ての世界よな。インターネットで情報収集できる時代でもなかったし、大人もあえて世界の広さを教えてくれることはない。まぁ世界を狭いものとした方が教育はしやすいし、ド田舎だし仕方がない。

 

現実の朝は、先週月曜が祝日だったため月曜のアラームを解除していた。ノーアラーム。二度寝か三度寝か目にアレ、と思って予定起床時間の10分後に覚醒したからあまり関係ない。歯磨き髭剃りした後着替えるまでに20分の余白がある。その間に好きな人の呟きをみたり、検温したりカフェオレ飲んだりしている。現実の昼は、管理会社との通話。修繕費用の全部は請求できなかったけど、おそらく妥当。全負担だったらちょっとごねてみるつもりだったけど、無駄なエネルギー消費が無くて良き。

 

現実の仕事は、特に語るべきことはないけど、同期が髪を切っていた。ショートカットって何か流行っているのかな。髪を括るのが面倒だという経済的判断ではないかとは思わなくもない。ふわふわしているけど、特に可愛らしいとは感じなかった。ついでに言うとあんまりさっぱりした空気も感じない。さっぱりしましたねと言う時機は数瞬あったけど、僕はそれを言語化しなかった。対面に座っていたら言ったかもしれないけど、だいぶ離れている。

 

ここで、現実とは。

 

僕にとっては、同期が髪を切ったことは現実だけど、同期にとっては自分が髪を切ったことに僕が気付いていないというのが現実。僕に対する洞察があれば、気付いたけど言ってくれなかったという現実認識もありうるけど、同期が僕をそこまで気にしているとも思わない。人間関係における現実って、このくらいの意味合いしかないのではないかという思う次第。

 

僕は気付いたことを全て現実として提示する訳ではないし、たぶん一般的にもそういう傾向はある。ここで人に対する感度みたいなことを考えるのだけど、どれくらいのものなのだろう。たぶん目に留まること、くらいしか感度がないのではないかという想像。何度か財布を忘れて水を持っていないことがあったけど誰にも気づかれなかったし。これでいうと、好きな人はとても良く人を見ているように読める。生活圏に居たらほころびが色々バレそう。お互い様かもしれない、という空想。

 

ともあれ。

 

思考地図の人は、なんとなく親近感を覚えてきてしまう。自信満々な書きぶりはポーズなのかもしれない。アイデアには、データのインプットとそれを無意識に沈殿させることが必要で、これは思考の整理学の人も言っていた。ただ鍋に入れれば良い訳ではなく、材料に対しての理解が必要。志向性を持った情報収集ではアイデアには辿りつけないのかもしれない。僕は別にアイデアのために生きている訳ではないから副産物でしかないが。

 

ところで、「朗読者」の終盤は滅茶苦茶鳥肌が立つ。ヒロインが自殺してしまうのだけど、文盲だった彼女が読み書きができるようになったのは主人公が送った朗読テープの小説を音と文字を照合しながら読んだからというところでぶわっと。世界を拡げてしまう存在の影響値とか、拡がった世界に耐え切れなかったのだろうかとか。好きな人の創作日誌のところで、対話とは渡す、渡されるだという定義があったけど、この小説の登場人物はまさにこれをやっていたような感じ。主人公にちょっと勇気があればヒロインは自殺しなかったかもしれない。一方的に朗読テープだけ送って個人的なメッセージを発しなかった。イコール繋がりの再接続への恐れかもしれないし、罪悪感かもしれない。

 

でも、この解釈はいまここを読んでいるからであって、タイミングがずれたらおそらく違うことになっている。これを読んでいると村上さんの某森の直子が想起された。この子はもっと自分のことを覚えておいてねという呪いをかけるような魔女感はあるけど、たぶん村上さんは「朗読者」も既読だろうなという印象。

 

印象だけでは思考はできないというのが「脳は私ではない」の人。思考のためには、印象の混沌を取り分ける概念がないといけない。世界はあるがままに見るには情報量が多すぎるから、細分化しないと認識しないといけないのは分かる。概念は言葉でもいいし、言葉でなくても良い。植物という言葉で世界を眺めると知らない植物は世界と認識されないけど、植物という概念であれば名前が分からなくてもカタチとかイロが違えば別の植物である。花がどうやって咲くのかのメカニズムが今読んでいる植物学の本にあって、とても面白い。日光が当たるか当たらないかの配分で、時間が短くなると花芽が形成される種類と逆の種類と。世界はよくできている。

 

「思考地図」の中で、採り入れたデータの軽重は無意識が素朴に判断しているというのがあったけど、僕は世界がどう見えるかというのがここに係ると感じる。人のどこを見るかとか世界のどこを見るかとか。見るってまさにデータ収集だし。目を閉じても見える世界なんてないし、あくまで志向的に世界を見ているのだと思うのだけど、それでも客観的だって思えるのはなかなか不思議な性質。

 

それにしても、好きな人の制作日誌がとても美味しくて困る。個人的に前2作とは明らかに変わっているように感じるのだけど、別に文体が変わっている訳でもないし、試みが変わっているのともなんだか違う。背景がすっきりしている感じ、なんだろう。素直になった? 当てられる言語がないな。

 

より好きを感じるのは、僕の存在が渡っているのが読めるところ。

読んでスキをつけてくれるよりよほど近い。僕は勝手につける人ですが。僕を読んでないかもしれないという評価は逆に失礼な気もする。ここも諦めるべきところか。

 

「存在」について。

僕は人格が一意であるという宗教の信者でなくなった。人格が1つしかなくて状況によって出る部分が違うって、宗教でいったら一神教だ。

 

たしかに存在としての人を肉体ベースで考えれば1つしかないし、それに付随した精神を1つとみなすと考えるのは割と自然かもしれない。でも、現実ベースで考えるとさっきの同期の話の通り、人の存在は1つではなくて多層的なものだと思う。自分の中で現実化されない思想を人格と捉えるのであれば、他人のそれも当然承認するべきだし、思っていたけど行動しなかったことを責められるのは、自分が思ったことを全て現実化できる超人しか居ない。

 

現象的意識が存在として認識されるには媒介が必要だ。言葉でも良い。ネットで蔓延っている匿名的な存在とか。あとはしぐさとか行為とか継続とか、全て間接的にしか読み取れないもの。みかんの繊維を取らなきゃいけない行動様式とか。

 

僕の文章も別に書く必要はない。僕の本質は穴倉にひきこもって全部どうでも良い野郎であって、読む人が居ないと存在しない。言葉はいつも遅れるから、あの日ちっく。別に伝わる何かとか伝えたい何かもない。好きな人への好きはどれだけ言葉にしても足りない。

 

この媒介を突き詰めると、僕の中にしか居ない誰かの存在という概念が生まれる。そんな概念なんてほとんどありえないのだけど、あるかもしれない。

 

ここまで。

 

では、おやすみなさい。