媒介

 

 

鯖の水煮缶とカレー粉を購入し家にある大根、白菜でご飯を作る。大根をごま油で炒めたあと白菜と水煮缶を加え柔らかくなるまで煮込む。ある程度水分が減ったあと、中濃ソースとカレー粉で味付け。副菜は厚揚げときのこでレンチン煮物。七味唐辛子でピリ辛。あとは目玉焼きとブロッコリースプラウト。タンパク質尽くしで栄養価高い。

 

さておき。

 

なんだかよく分からない精神状態。やはりこういう水準に他人を巻き込んではいけない気がする。

 

恋愛感情とは性欲の合理化だとか、他人と同化したいという欲求の発現だというけれど、僕の腑に落ちたものはなんだか違う。深く触れたい、輪郭を辿りたいという欲求とともに、深く触れられ輪郭を辿られたいという欲求があるようだ。何が好きで何が嫌いかというような事務情報ではなくて、存在のこと。僕が触れている部分も言葉とかでなく、言葉を生み出した存在みたいなもので、語義とは随分離れてしまった。美味しいご飯を提供できるのはどういった語彙を遣うかであって、文章が整っているとか、読みやすいとかではない。

 

受動の為の能動で能動の為の受動であり主客が逆転している。

 

この文脈ではもう十分触れ合いがあったから、生活に戻った方が良いのではというところと、僕は自分の存在に対して不浄だとしてしまうところがあるから、ここまでというところと。

 

絆されてしまったものだ。

 

いつでも心の傍らに居場所というか収まり所があるから、僕にとってはもはや生活の一部で、あんまり関係ない気もするが。

 

媒介による存在の顕在化でいうと、僕は人の存在を背景みたいな部分で見ているような気がする。短歌はほとんど読まないのだけど、なんとなくその人の固有のリズムが分かってきたような感じ。読みやすいとは別の軸。

 

現実的な肉を伴った関係でいうと、相手が僕をどう捉えているのかみたいな部分を読む。僕を知りたいとか尊敬だけでは成り立たないし、むしろ僕が遠慮し過ぎてきた時系列か。もっと話せば良かったではなくて、もっと遊べば良かった。

 

生活軸で言えば、求められるのは遊びではなく継続だし仕方がない。「脳は私ではない」で、人は生活世界から逃れられないというフレーズがあったけど、そういうことなのだろうな。生活=物理的肉体の継続であってここでは遊んでは要られず、自分にとって有用かどうかを日々判断していかないといけない。この軽重がまさに世界の見え方。

 

あれ、これでいうとやはり好きな人の世界の見え方って生活軸とはずれているような。写真という媒介によって見ている人の見え方が間接的に読めるとすると、継続した生活を記録していることも多いけど、瞬間というかあの日っていう感じがするな。路上に放置されたマスクとか、景色の移り変わる瞬間とか、人の表情の機微とか。顔の記録が制作日誌にあるけど、レンズの向こうに居るだろう好きな人が意識されていないような感じ。そういうパーソナリティなのかな。はとっぽっぽにも無視される感じ(とても好きなフレーズ)。そう考えると、同居人との生活日記もやや違和感が。

 

媒介でいうと僕の存在に一番近いのは、言葉というか独り言だと思われる。発話は相手に合わすもので行動は状況(物理状況)に合わすものだから、色々と縛りがある。あんまり意識されないかもしれないけど、機能上そうなっている。誰も見ていない自分の行動は微妙なところか。ただ、誰も見ていなくても自分が設定した行動理念とは照らし合わされるよな。で、この行動理念はどうやって作られているかを考えれば。内向的でおとなしい奴と設定されたことでいかほどに不自由だったか。

 

この独り言的人格の饒舌性は、誰に対しても発現されないもの。アピールする類のものではないし、単なる自分の頭の中を可視化する作用しかない。頭の中を全部表現するのは人間には不可能だ。

 

人の語彙は確かに人格の背景を推測する間接的な証拠ではある。僕は強い言葉とか他人を卑下する言葉を遣う人がとても苦手になっているのだけど、これはそういう人が嫌だというより諸刃の剣だから、痛々しくて。自分もそういう言葉にさらされることが無意識下で許容されているような。

 

ただ、ナチュラルな言葉遣いって、最初に語彙を習得した環境に依存するよな。特に家庭環境。僕は大学入ってから地方のイントネーションも直して(直し切ったとは言わない)、語彙は小説から再インストールして、もうどこの人の言葉遣いかよく分からないことになっているけど。

 

そういえば。「思考地図」で、家族構造と思想が相関しているという研究結果を論文にしたらバッシングを受けたという話があった。核家族が資本主義で、共同家族が共産主義みたいな。読んで思ったけど、個人的には全く違和感ないし、当然ではなかろうか。ミクロの家族構造で言っても、親がどういう思想だったかというのは継承されるし。お金にシビアな親の元で育った知り合いが何人かいたけど、すごいきっちりしていたし、自分がお金を使うことには意味があるみたいな思想だった。

 

僕の親は人格的にはやばい人だったけど、お金と子供を天秤にかけるような思想ではなかったから、貨幣信仰みたいな思想はない。今となっては資本主義的思想なのは分かったけど、最初からそれを出さないだけで随分違う。ただ、家族という共同体を形成することにはとても忌避がある。ただ一緒に生活しているだけだった18年間。帰って温かみを感じることもない。家族と近いところで住み続けたいという思想がある人はとても良い家族構造のもとに育ったのだろう。あれ、では好きな人は。

 

どうでも良いけど、ここ何日か、誤字がないかの確認で自分の日記を読みかえすと我ながら面白い。とてものびのびしている感じ。ここまでくるのに幾年。ここでの試行は文字を遣った交信ないし表現に直結する。生きるのには向いてないけどただ続けることには向いているんだよな。これこそが生きることだと言われたら、うーむとなる。

 

僕は読む人だけど、自分が何かを理解していると思っている訳ではない。誤解だらけだろうし、理解って言語化の過程のものだし、理解を言語化した時点でもともとのものとは別物になるし。

 

日記に書かれた言葉を自分と同一視できるという思想もこの辺りにあるのか。

僕はふと思い至って、ここまでの何百の記事をまっさらにしても揺らがない自分があるから、記録を財産としては保持していないのだろうな。

 

ちょっとずれた。

 

好きな人の文章はだいたい漏れずに読んでいるけど、文章だけで理解できると思っていないし、財産=モノ的に捉えている訳ではないから、あんまり問題にはならない。というかならなくなったのは最近。ただ見にくる存在の方がむしろ饒舌なのではないか、みたいな。

 

 

やめたくないとやめたいが拮抗しているな。

どちらが勝つだろう。

 

僕の文章は、僕の存在からすればいつも遅い。

 

内言語が全て現実化されるという最先端技術があったら、生活的言語と、思考的言語と、好きな人への言語が並列しているはず。

 

では、おやすみなさい。

 

おしまい。

 

(なんだか世界に対して祈れなくなっている)