因果

 

 

雨の日の夜の街路はとてもカラフル。道路に張られた水が信号機の色の変化を反射して二重に見えるし、滲むことによって色の範囲が拡がる。寂しくはない。けど、1人だなと思う。

 

 

僕も言葉の不都合性が好きです。と、145日前の好きな人の意識に対して今の意識が返答する。過去の日記って、更新されているかどうかを問わず死んだ人のようだ。と、「思考地図」で歴史学の古典を研究することは死んだ人と生きることだというフレーズを読んだときにふと頭に浮かぶ。

 

言葉はというか、あらゆる現象は意識ひいては存在の間接的なメディアでしかない。存在は自然法則を介してしか現実に現われないのは確か。そういう現実を介してしか人は世界を捉えられなくて、ただ、自分の中には自然法則とは無関係な部分があることを知っている。意識はたやすく時空を超えるし。

 

だから、常に意識と自然を介した自分には齟齬がある。フロムさんとか釈迦さんとが言っているのはこの齟齬を受け入れてなお埋めようとすることかもしれない。

 

あんまり全般的に考えても途方もないから、言葉に絞って。

 

新刊枠は森さんのフーライボー。森さんとプルーストさんはまぁまぁ文体が似ている。意識のスケッチみたいな感じが。まだ最初の方だけど、主人公らしき人が、本は書いてある文章が大事だからメディアは必要ないと言っていた。僕も同意見。本は財産として持っていたって意味がない。

 

言葉も他の現象と同じく、自然法則からは逃れられない。目がその文字のカタチを見ることによって知覚される。ただ、文字の意味とか文体を捉えているのは意識だから、むしろ媒体の中では一番存在に近いのではという説もある。何をもって存在を定義するかによるけれど。

 

どうでも良いけど、好きな人のテーマソングは「embrace」だなと本日思う。隠れてないで出て来いよ、この部屋は大丈夫―。ただ、抱きしめられているのは僕の方なんだよな。

 

さて。

 

プルーストエドガー・アラン・ポートルストイシェークスピア、カント、ヘーゲル、夏目さん諸々、物理的に死んだ人の本を読んでいるけど、僕の中では生きている。おそらく「思考地図」の人の死んだ人と生きているという発言は、死んだ人が書いた本を研究することで生存を継続しているという意味合いだろうけど、僕のは違う。

 

それを現実化するかどうかはともかく、「読むこと」も存在の現実化の1つであるという意味。物理的に死んだ人であっても、言語をメディアとした時の意識は読めるしそういう対話するためには、文字を追うだけではできない。その人の文体のリズムとか句読点の意図とかそういうものを含めていくと、てきとーに接している物理世界の人物より遥かに情報量は多い。

 

「生きる」も定義次第だけど、僕は、こうやって読むことも「生きる」に含んでいる。ただ物理的に継続するなんて自分を殺せばいくらでもできるだろうし。

 

この文脈だと、自分の中で生きている人というのは、物理的な生死には関係なくなってくる。過去の日記が死んだ人だと言うのは、それを言語化させた意識と、今の当人の意識は完全に同一ではないから。生存しているのであれば確かに一番近い意識は当人のものだろうけど、重なることがないのも「生きる」ということ。

 

別のものだとした方が一致するということはありうる。

 

僕は14日後の自分が今の自分と同じものだとは思っていないけど、思っていないからこそ自分で在りうると感じる。

 

世界に対して祈れなくなったのはなんでなのか。「脳は私ではない」で、意識とは立場であって、操作できるものではないという言があって、あぁ、なるほどとは思わなくもない。

 

結局のところ、存在とは意識であって、意識に対する影響は祈りとは別のところにある。誰かに対して何かを遠慮していている暇はないから、祈りも邪魔だろうというか、僕が世界に対して他人事で居られなくなっているという節もある。

 

 

なんだろうな。

 

僕はもともと何かを知りたいと思って本を読んでいたわけではなく、普通の読み方としての没頭で良かったのに、いつの間にかこんなところまできてしまった。新たな文体は僕が構築してきた当たり前を剥がす作用がある。どれだけ剥がれても自分であることは変えられないからあとは現実化の文脈か。

 

気が重くなると僕の中の誰かが言語化した。

いやいや、普通の人は僕に影響される暇はないでしょと常識人が言う。だったらあの人はどうなんだと質問野郎が問い、全員一致であの人はヤバイと答える。

 

 

だいたいの人って、因果がある訳じゃん。何かの目的の為に、何かを行為するとか継続するとか。そういう因果論で言えば、僕が人から好意的に解釈されることも分かる。自分を傷つけないし、なんなら有用っぽい。人は自分の存在が脅かされる対象を恐れるから、攻撃的になる。

 

好きな人の因果は全く不明。

色々理由付けてみたこともあったけど、もう知らんで良い。言葉の領域では判断できないところなのだろう。

 

僕の因果は自分のものではない。だって、内部は自然法則が支配している世界ではない。

 

でも、自分になれてきた感はあるな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。