爽快感

 

 

幸せを保持する器があまりに小さいものだから、これ以上ない、と、帰り路で言語化される。しかし、帰ってから考えると、幸せって事実ではなくて状態だから保持するとか所有する対象ではない感じ。

 

定期的にこれ以上書くことはないなと思う。昨日もそう。でも、インプットが終わらない以上アウトプットすることもなくならない。僕にとって思考は状態であって財産ではない。あれ、何やら共通軸が。

 

さておき。

 

どうでも良いけど、スキ1番乗りはほんとたまたまです。明日からシフトが少し早い時間帯だから時間調整で少し早くお風呂から出てチェックしただけ。現実的に読むことにかけている時間の比率で言えばそれほどでもない、はず、1日10分もないくらい。毎日欠かさないという意味ではアレだが好きかどうかはあまり関係ないこと

 

意識に占めている比率は。

 

食料品を買うついでにマルクスを探しにいった。人が交換できる中身は同じものではないといけないっていう考え方は、資本主義における人格と貨幣が交換できるという人の精神性の後退へのアンチテーゼみたいなことなのかと想像したため読みたくなった。

 

フロムさんの「生きるということ」にあった話。他の人の言で、他に人が社会システムに依存するとき、社会生活を生活として、人の中に情緒的生活が欠けてしまったというのもあった。

 

社会主義って失敗したシステムとされているけど、労働時間を減らして人間的生活ができるようにするみたいなコンセプト自体は悪くないような。分配すべきものを上層部が溜め込んだということであれば、システムの失敗というより人間の失敗だと思われる。この意味での失敗は資本主義社会でも起こっているように思うのだけど、自由であると思い込ませるというのが上手いのかもしれない。どちらにせよ過渡期の制度な気がする。人間観もきっとまだまだ更新されるし。まだあんまり読んでいないからこれ以上は避ける。

 

 

ここからは自分語り。

 

好きな人に対して、僕はどうしようもなく慰撫されたという感謝の念が拭えない。物理的に何かがあった訳でもなく、何か好意を評された訳もなし、出自不明な感じ。はっきり言って引かれてしかるべき。みたいなことを考えていたら、自分の思想史、いや、意識史みたいなことを考察していた。

 

どうでも良くついでに、去年の忘年会の居酒屋で最後のデザートが余っていて、同期に食べればと言われ、じゃあ食べようかと言ったら、「なんでも受け入れる」と評されたことを思い出す。それで僕が分岐したわけでも無いのに再現される。僕は社会的に良い人だけど、これは「どうでも」がついているやつだなという思想史とセットなのかも。僕にとって「あの日」は特異点とは限らない。

 

僕は小学生時代は世界に開いていた。外向的というは世界に積極的に開示するというより、積極的に関与することで自分の立ち位置を測ること。なので普通である。意識で覚えているのは、幼稚園時分に年長の人に追い回されたとか、小4の時に転校してきた女の子が僕のことを好きなんだって全然関係ない人に追い回されたとかこういうエピソードは書いている

 

あと、凄く温厚だった真っ白な毛並みの猫(チロ)が、坂道に停めてあった自家用ワゴンのスライドドアに挟まれて亡くなったのを見たときのこと。定かではないけど、たしか命が終わりつつある瞬間を見た。真っ白が違う色に染まる。終わったあと、布団に潜り込んで泣きながら命はゲームみたいにリセットできないというフレーズを念仏のように意識していた。

 

そうして、言葉で世界に関与することが閉じられたのが中学生くらい。漫画は常に読んでいたし。教科書に書かれていることを吐き出すテストもつつがなかったから意識の中には言葉はあったのだろうけど、それを外に出すことはめっきり減った。声変わりで裏返ってコントロールしにくい自分の発音もそうだし、どうやら自分の発言はずれているということが学習されたから。

 

人に何を話したら良いかが分からなくなった。高校はこのままで、父親とほとんど話すこともないまま終わり、大学生。

 

世界の枠が拡がった分とアルコールという道具を得て、少しだけ話すようになった。ただ、今思うと、ほんとに話したいから話しているという訳でもなく、読むための発話でしかない。僕の中には人に話して表現したい自分が居ないらしい。協調性に欠けるということはない。場に合わせて発話することくらいはできるし。

 

あと、小説を読むようになった。現代小説ばかりだったけど。映画も良く見ていたな。

 

そうして、幾人か個人的な関係もあり、同一化ないし合一化という感じも分かった。世界との繋がりが希薄というか空虚である以上、関係はそこに集中する。いまとなってはもう少しうまくできそうだけど。ほぼほぼ1カ月ルールだった。

 

大学3年の時、就活をするか院の試験を受けるのかというかという選択肢があり、後者を選んで、毎日12時間くらい図書館に籠っている中、たまたまSNSで交流していた女の子。癒しであった。

 

この人と付き合うとか同棲することになるのだけど、かなり依存してしまい、最終的にはぼろぼろになった。言葉と人格は全然一致していないなという感覚はずっとあったことだけど、よりオブラートが何重にもなる。

 

今は思い出してもそれほど何か特異点だったと思わないけど、浮気相手とのプリクラに書かれている「ずっと好き」みたいなメッセージを見た後に、お風呂でシャワーを浴びている当人に、僕のこと好きですかと聞いたら好きですと返ってきて、言葉とはなんだと思ったのは確か。

 

でも、悪いことしたなと思っている。もっと別の人と先に幸せになれただろうに、みたいな。

 

ともあれ、これが20代半ばのことで、そこから数年色んな人格の人に出逢った。虚言癖とかほんとの悪女とか、色んな人格を保有している人とか。いろんな人が居るものだ。これは経験則になっているけど、未来への予測値にはならない。

 

詰まるところ、僕は誰かの人格に合わせることをやめるために1度リセットして1人になりたかったのだと思う。1人で十分から始めないといけない。

 

「思考地図」の人が、自分は小さい頃本に逃げていたということを言っている。本は現実逃避だという言は一般的にも良く聞くけど、本に逃げているのであれば、現実からも逃げられないだろうと思う。

 

そうそう、好きな人の話。

僕が僕のままであって良いということが対人でもありうるとしてくれたと読み取れたから、勝手に回復させて貰った。何か他の色もある気がしないでもないけど、たぶん分かるようには出さないと思う。

 

個人的には、本が読みたくなったとか日記を継続するようになったのは僕の存在の作用なのかもしれないと思わなくもないけど、「存在を受け入れる」と言った言葉が嘘じゃないのだろうなというのがとてもとても、この関係ができる人はもう現われないだろうなという感じ。無関係な関係。

 

最後。

 

縁とか共時性みたいなことは単なる偶然でしかないという説はとても分かるし、それほど現実において重視していない。そうじゃなくて、これをとっかかりにして現実が変化するかどうかが大事。それに自分が反応できるように準備だけは怠らないようにしようと思う次第。

 

おしまい。