解析

 

 

絶対に在りえないと思っていたことが在りえたとすると、諸々の不整合に説明がつく。とても嬉しいことだ。ただ、そうだったとしても、現実的に何かを変えようとするかというとそんなことはなかろうな。我ながら害のない好意。

 

我ながら、といえば、ふわふわした気持ちで仕事をしていたら自分の中の最高記録を更新していた。たまたま最古参の人が、頑張っているかと声をかけてくれたとき、頑張っていますって即答していた。自画自賛って言われたけど、笑いながらだったし、この尊重がとても心地良い。進歩しましたって言ったら、いや最初からと、もごもごと仰る。それに、本日の仕事全体から見ても最高本数だったから、まだまだですって言うのも失礼よなという無意識が働いた模様。

 

現実楽しい。でも、やりがいとか認められたからみたいな話とは違う。後述。

 

そういえば、お風呂に入っていたとき日中何考えていたかなと振り返っていたら信号待ちのときに、昔高速バスによく乗っていた頃の暇つぶしを想い出していたのだった。車窓から見える行きかう自動車のナンバープレートの4つの数字をひたすら足していく動体視力と計算力の訓練。そうして今度京都行くときは電車ではなく高速バスで向かおうかなとふと思ったのだった。通勤時間。

 

ふわふわしていたから、帰りのスーパーで動物性たんぱく質を買い忘れた。しかし、焦ることなかれ、野菜と植物性たんぱく質でなんとかなるわと思い、本を読みつつレシピサイトを眺めつ献立を組み立てる。

 

鍋にお湯を沸かしながら、セロリの茎部分を刻みビニール袋に入れ、ポッカレモン、塩、醤油ちょっと、顆粒出汁、砂糖で浅漬けの準備をし、お風呂のお湯をためながら洗い物をしてお湯が沸くのを待つ。沸いたら青梗菜を茹でつつ、ピーマンを千切りにし、茹でられた青梗菜を水につけながら、ちくわを切る。青梗菜と竹輪もビニール袋にいれ、こちらは醤油と砂糖とすりごまを投入し胡麻和え。フライパンを温めながら豆苗をキッチンバサミで切り、フライパンにオリーブオイルをたらしピーマンを塩コショウをまぶし炒めながら、卵2個を器に割って中濃ソースをちょっと加えて混ぜる。豆苗を加えて炒め、卵を追加して完成。で、明日の弁当のご飯を炊飯器でセットしたくらいでちょうどお湯がたまるという塩梅。

 

日常の所作の言語化は細かくなるな。好きな人が書いていた化粧の工程のようだ。

 

ここまでは前置きで、昼ご飯の時にもう1回自分の中にある「人間観」について考えていた。

 

僕が生きてきた中で観察してきた「人間」って凄く固まっているものだと捉えられていた。固形物に近い。だから、他人の中にある僕像という固形物をなるべく壊さないようにしなければという義務観も生まれる。でも、いまおもうと、この人間観って、不自然よな。自然はすべからく変化していくものなのに人間だけ固まっているって整合性がない。大人ってなんかしんどいものなのだなと思っていた子供期、年齢的にも大人になった後でも、人って固形物なんだなと思っていたけど、僕の日々柔らかくなる人格はなんなのだろうという想起。

 

いまの人間観を一言で示すなら、「過程の中の瞬間」が適切な言葉の当て方。

 

過程とは、刻々変化する物理的・精神的な部分で、瞬間は自分が自分であると認識される刹那。意識を意識するとか、所作のモニタリングをしていたある意味経験則な定義。刻々と動いているが、自意識は断続的に把握されているから動きは微々で、総合的には動いてないように見える。何年か前の自分を振り返ってみれば分かる感覚。

 

で、他人も同じようなもので、自分が知覚できる、感得できる瞬間の点がその人で、それが時間の動きの中で線になって俯瞰すれば動いていないとなる。

 

そう考えていくと本当に動かなくなる=完成って、命が閉じた時だろうな。

 

この視点で「過程より結果の方が大事」という一般論を眺めてみる。確かに結果を現実化と定義すると、外界にも認識されるし自己観としても分かり易い対象ではある。瞬間の客体も自意識から自然法則を介した世界になっているから、誰が見てもわかるものは大事かもしれない。

 

ここでいう結果は勝利とか市場価値とかが一般論で、これって世界とか社会の観念から個人の観念にも流入されている。どちらが先かは知らない。

 

自分の過程(精神)より現実化の方が大事。いや個々人は過程を見ているかもしれないけど、他人の過程は見れないし読もうとしないから同じこと。要は、自然法則を介した現実化を前提として判断される。

 

で、自分を現実化する媒体は、人間には行為、発話、言語、創作、とバリエーションがある。創作は特殊なので除くとして、素朴な自己紹介をしようとしたとき、何が一番論拠になるかというと行為だと思われる。自分は意志に基づいて行為していて、行為している意識があるということ。

 

でも、僕のいまの見解だと、行為がその人の存在をほんとうに一番反映しているメディア足りうるのかというのは微妙というか、ほんとに人って行為に意識的なのかという疑問。自分の日々の行為を意識的にモニタリングして、動くように調整しているならともかくほとんど自意識とは無関係のオートにしているような気がする。

 

あと、自分を言語で紹介しようとするとき手っ取り早いのが自分がどういった行為傾向があるのか(せっかち、優柔不断、思いやり諸々)だけど、傾向は行為の一過性では説明できないものであって、何かずれている。

 

このズレの正体が言語なのだろうなと思うし、素朴な自分の稼働域を試行しない人の方が言葉を大げさに遣うと思われる。

 

あと、自己認識と本当の自分の現実化の齟齬。自分で規定した自分がそれほど自分ではなかったということもありうる。飛び出さないと起こらないが。

 

僕はずっとずっと、自分の発話にコンプレックスがあった。口下手というのもあったけどそれよりも、自分の音としての声。居酒屋の注文とかも通らないからしにくいし、会話で聞き返されるのは割とトラウマ。

 

でも、仕事で自分の声を使っていると、ただ馴れていなかっただけだなと思う。声帯の鍛え方が足りなかった。普通に発話を結果として生きるような人格であれば、色んな人と話して、自然と鍛えられたのだろうけど、基本的に発話は自分とあまり一致していないという観念があったもので。

 

素朴な個人の現実化で考えたとき、どの媒体であってもその個人と一致することはない。だから過程の中の瞬間。僕が接してきた人達は、発話している自分の人格は固定化された真理みたいだったから、そんな人に僕が話すことはないよなと思ったのだろうな。

 

でも、一致しないことに嘆いて生活しているなんてことはなく。冒頭に返ってきて、逆に一致しないのであれば、どれだけも試行できるよなと思っているのが現在の仕事生活。誰かに認められた、嬉しいとかが言動量ではない。こういう方向で生きだしてから不思議と疲れない。人の目があるといっても、僕が人を見ている以上に僕を見ている人はそんなにいないし。

 

いつか好きな人に僕は可能性的世界で生きていると発信したけれど、まさにそんな感じ。

もっと現実で遊べる。

 

「思考地図」で、分析者は「今現在」から離れることができるというフレーズがあった。今現在の情勢とか世界線から離れたところで考えられるという趣旨。分かる。僕は別に分析者ではないような気もする。でも、読み始めからすると随分仲良くなったと思う。

 

あと、「脳は私でない」には、意識で人間は全部カバーできる訳でもないと書かれていて、そうだよなと思う。当人が意識できなくて、他人に把握される当人という部分は当然ありうる。

 

夜の文章はメルヘンになるというところをどこかで見たけど、僕の頭の中の言語は素面の仕事中でもあまり変わらなくなっている。

 

おしまい。