人全般

 

 

 

読んでいるポーさんの本は最寄りの古書店で買った50円の旺文社のもの。しおりが挟んであってこれも年代物。「人の品格はその者が読んでいる書物により判断できる。あたかも人の品格がその者が交際している人によるのと同じように」。毎回見えるから考えていたのだけど、僕の癖は節操ないから品格がないというか、品格の問題ではないというか。夜よりももっと暗がりに居る人達と交際しているのかもしれない。小説における言葉はその人の頭の中にある現実化されない澱なのかもな。

 

アニメを見ていたら、同じ作者で別の漫画の共通項が見つかった。なんで気付かなかったのだろう。同じことを別の媒体で語っているみたいな。そういえば、あだちさんもそんな感じか。

 

さておき。

 

平常通りの生活。朝家を出てふと目を上げると白い月が浮かんでいる。そうか、夜でなくても見えたのだったと思い出した。朝一から良い気分。お弁当休憩時間は、またnoteが更新されていたから美味しく食べて、煙草を吸いながら白い月のことを考えてぼーっとしていると、目の前のほとんど枯れている丈の低い笹の中に他より伸びている笹があり、そいつの葉にセミの抜け殻が4体残っていることにピントが絞られる。一瞬見えてない笹に抜け殻がわらわらというか、さくさく蓮コラのように密集しているのではという想像が沸いて、ぞわっとする。セミの幼虫はどうやって自分が上っている物体が他より高いことを知っているのだろう。たしかにより高い方が飛び立ちやすいだろうし、その後の残り時間を考えると合理的。

 

昨日と同じダックスフントは、本日は僕ではなく向かい側の人に擦り寄っていた。フォルムがとても愛らしい。

 

一体僕の無意識は何をもってこれに焦点を絞っているのだろう。知覚の不思議。日常は絵でも写真でも映画でもなく何の意図もない光景が流れているだけなのに。

 

「こころ」が捗る。Kがやっとこさ登場した。たしか高校の現文に載っていたのは、ほとんど最後のシーンだったな。「わたし」は登場しなかったのではなかったか。夏目さんもあまり読み込んではないけど、同じことを書いている人のような気がする。書くというより描くに近いのかな、分からないけど。

 

そういえば、謎の人が間接的に誕生日を教えてくれたことから、誕生日という概念について考えた。人の誕生日を覚えるのが頗る苦手だったのだが、今や昔の時系列で過ごしたクラスメイトの何人かがだいたい何月何日だったか想起できる。もっと思い出そうとしてみたが駄目だった。高校のクラスでは僕と同じ誕生日の人がさらに2人居たのだったなとかは思い出す。ちなみに語呂合わせ的には良い子の日で、全然良い子ではないから面白い。

 

これって何だったのだろうと今更解釈したとき、こういう情報を共有していることが繋がりだという一般論に対する嫌悪だったのだろうなとなる。要は、お互いのことを知ったことにできるというまどろみ的な関係。知っていることは分かち合えることだという意識論を読んだことによる思い付きなのかも。いちいちというか、逐一観測する必要がなくなる感じ。他人のことを知っているとしてしまったら、もうそれ以上知ることはできないのに。

 

そんなに脳の容量はないという反論があるかもしれないが、脳自体は、知覚された情報を逐一観測して処理しているはず。危険かどうか、蓄積した情報と照らし合わせてどうか。意識に上ってくるものが完全に上澄みなのかというと微妙なところで、たぶん解明もされていない。けど、僕自身の意識として、単純な記憶力で10代の映像記憶に勝てるかどうかは微妙なところだが、まどろみはなくなっている。経年劣化で新しいことが覚えられないとか、覚えていたことが出てこなくなるという説は単純に嘘。固めてしまっただけ。

 

これを誰かと共有できるとも思わないが、僕は僕がすっきりした自分になる為に本を読み続けているのかもしれない。まどろみがなくなったというのは、自分が何とも癒着していないということで、本来は他を気にしなくていいということ。開示すると嫌なことが起こるからまどろんでいた方が良いわと思っていた従来。

 

思い出は今と等しいし、今度は、自分のちょっと先の発言も自分の思い通りにやってみるということを考えている。

 

あと客観時間で3日に迫ったそこに居ることが決まっている劇場の風景写真が出ていて、なんだか懐かしい。懐かしさはもう起こらない過去ではなく、起こる今がないと起こらない。雑い。

 

フロイトさんの、自我と超自我と私の違いを読んだのだが、さっぱり分からない。いや言っていることは分かるが違いが分からないという方が適切。なんとなく私は現実を意識できる範囲で正当化する領域で、他は無意識領域からの反応みたいなことで、言語とか発話とか所作は果たしてどこからきているのかは説明されていないようなという感じ。

 

何を言っているのだろう。でも、人って単純な物理ないし自然法則の中で存在している訳ではないから、自分が何をした、相手が何をしてくれたみたいな作用反作用の法則は適用されない。

 

目的も動機も大した意味はないと思っているのがここ。ここで問題になるのは言葉じゃないだろうという感じ。

 

あと、欲動という概念もあって、これは現実を変化させるものらしい。おそらく自然法則的に顕在化する部分なのかな。うむ、分かるけど、果たしてこれらの概念ってきちっと仕分けできるものなのだろうか。

 

というか、そもそも、人って自分を顕在化させることに慣れていないと思う。意識的でないだろうし、修練もされないし。思っているけどできない、しないとか、してもラグがあるとか当たり前。

 

よく分からないことになってきたたため、最後。

 

僕がそうであるように人だって出てきている見える部分が全てではない。

もっと大事にしよう。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。