未定

 

 

 

「ふくふく」というのは、某将棋漫画でやせ細った捨て猫を拾っていっぱい食べさせて健康体にすることが趣味な女性がいたから。とても楽しそうだなと思っただけ。他意はありません。空虚な気持ちもすっきりした。寝ると割と受け入れてしまうのかなと思ったが、そもそも足し算的関係の何が悪いというか、そうでなければ続かなかっただろうなと思う。巡り合わせなんだろう。おそらくお互い様という意味で。この先は知らない。

 

さておき。

 

仕事はちょっと失敗しつつ普通な感じ。やっぱり人の喜んでくれている声って好きだな。別に自分を引き算して得たものである当たり前でもなく、普通に嬉しい。全国津々浦々で一生現実的に会うことはない人々なのだけど。もちろん、仕事時間という限定領域の話。

 

仕事が終わって帰り際に確認すると、演劇が65分もあるという情報があってテンションが上がっている。カントさんが言う、時間は物自体の外にあってアプリオリに世界を捉える個人の形式だというのは、その通りだ。65分って、睡眠時間だったら自覚されないし、仕事の残り時間だったり、移動時間だったりするとたぶん長いし、いろいろ伸び縮みする。

 

この65分が嬉しいのは、これの時間を創るために比例した制作時間も一緒に食べることができること。テキストデータもさぞ多かろう。制作日誌であと6頁というフレーズがあり、垂涎物である。時間が客観的なものではないのは、それぞれの個人の時の流れが違うことと、自然法則に従って出てきた人の何かに凝縮された時間が違うことが含まれている。謎の人は随分ラグがあるように見受けられるが、消化器官は強靭なのかもしれない。

 

1回目の公開時間の直前に、ちょっとお祈りして、制作日誌を一頻り読み返した(語用が誤用かもしれない)。フロムさんの「生きるということ」の中に、持つ人とある人の学習方法の違いがあって、たしか書いたこともある。持つ人は、学習に際して何も準備せずあくまで受動的に情報をノートに取るけれど、ある人は、前もって学習することに対して一定の見解を予習しているという話。

 

たぶん、これって表現物に対する姿勢にも通底している。というか、世界をどう捉えるかみたいな。どちらも客観てきなものではなく、それをスクリーンに通す自分による。好き嫌いの前にこの膜がある訳で。個人的にこの膜はカーテンみたいにたなびいている感じがしている。

 

ということで、「争い」について整理しておこう。昼休憩でいつものように本屋に行ったら、「紛争解決論」という親書があった。ぱらぱらとめくったところ、紛争の定義として、「複数の人が相反する目的をもっていること」とあった。確かに、昼ご飯に何を食べるかというお題で、1人が「うどん」、もう1人が「パスタ」と言えば、これが紛争かもしれない。どうでも良いけど、居酒屋のメニューが雑多なのって、こういうところなのかな。だいたい対応できる感じ。

 

ただ、ここでいう目的って、自己完結できない領域であることが前提とされているような感じ。自分は(世界に)こうしたい、こうして欲しいという身の丈に合っていない願望が目的となっているような。争いのほとんどはこれに還元できそう。ご飯の話で言えば、ちょっと手間だけど、2つとも作ればいい。食卓に同じものが乗っていないといけないというルールもないし。

 

目的がどうしても譲れないものなのかどうか。戦争だと、宗教とか土地とか譲れないというか、それ以外はないということはある。日々の争いで言ったら、それ=自分だろうが、この自分はたなびいてないかという疑念。同じことでも虫の居所があれば譲らない、機嫌が良ければ譲ることができる。だったら、自分はどちらだ?

 

譲れないと言えば、「こころ」の、先生とKとお嬢さんの関係。確かに客観的に見て、配偶者は番だが、この番であるというラベルと個人の想念は別物な感じがする。先生は果たしてお嬢さんのことを愛していたのか。自分のことを愛していないお嬢さんを嫁に貰うことはできないと言っている。夫婦制度の中身を求めながら結局制度を行使する訳で、なかなか人って凄いよな。僕の部屋に入り浸った人も結婚してからも平気で浮気しながら云々は省略。こういう友人と交際していることで僕もそういう倫理なのではと疑われたこともあったが、別に連動はしていないと弁明してもどうなんだろうと思っていた。これが交際品格論か。

 

僕は、この人が赤の他人(店員さん)に高圧的に接する姿の方が嫌っだった。恋愛関係は当人同士のものだから知ったことではない。僕は基本的に人と触れ合いたくない人だから、時系列1人で良い。触れることができるから好きとも違うし。まぁ触れ合いが余剰だと分かったのはこのご時世のおかげ。

 

触れ合いには物理的以外の接触も含む。

 

どうしても自分の人生が物語的に読めてしまうのは、あんまり自分を生きていないということかもしれない。ただ、別に王子様でもないし、ただの端役でもないが、現実が変わっているということはある。無意識が調整しているのではないかとういう疑念。

 

なんというか、無意識の方がいつも一枚上手なような気がしてならない。操作されているとかは思わないとしても、新しい知見でももともとあったのではにおわせてくる感じ。

 

世界と自分の関係も随分と緩くなりつつある。世界は自分に対して全然決まってないなと。ただ、人に対してこれをして良いのかというはなかなか難しいところ。人は他人を決めないと認識できないのではないかという疑念と、あんまりアレするとキャパオーバーになるよなと。まぁ壊したとしても新たに僕の像が更新されるだけで、特に変わらないとは思う。だいたいの人にとって僕はどうでも良いし。母親も含め。

 

この、どうでも良さを認識することでもっと開けば良いなと思ってきた。

 

これは自分の可動性の話。僕は暗がりに生息している人だが、別に人に対して悲観している訳でもない。危惧があるとすれば影響値。僕の素朴はこんな奴なもので、基本的に交換価値がないところで生きている。

 

価値はなくてもちゃんと見てくれれば良いという領域では、謎の人が最上。

話してみたいという欲動はあるが楽しませる自信はない。

 

基本的に人は人を通り過ごすのだから、その人達の目を気にして自分を制限する意味がない。

 

明日から日記がどうなるかは分からないな。

 

という感じでおしまい。

 

おやすみなさい。