人があの日になるとき

 

 

 

我ながら、恋愛感情的な思考回路はガバガバで馬鹿っぽい。目的からすれば全部度外視するという意味でなかなか合理的ではある。ただ、これは叶わないし、むしろ叶わない方が良い強いのであれば、何故殺さないのか。毎回一頻り盛り上がると、自称常識人のような思考が説得しようとしてくる。しかし、自称常識人も僕がもともと常識人ではないためそれほどの力を持たない。いったい何を感じているのか。いっそ、持ち前の攻撃性で攻撃してくれればすっきりするのに。

 

ついでにご都合主義だ。好意の「承認」と「許容」は全然違う。

 

昨日の文字数は、すっきりではなく法学の記述分かもしれない。刑法の概念が、社会の最低限の攻撃というか利益の保護と思うと、とても面白い。本日は暴行概念と障害概念。暴行罪における暴行は、人に対する有形力の行使と定義されるのだが、有形力とはなんぞやと考えるとなかなか深い。近くに石を投げるとか、車で幅寄せするとか、髪を切るとか、塩を投げるとか。まぁこの水準の有形力の行使が全部捕捉されているかとなると微妙だと思う。傷害は、人の生理機能の侵害という定義で、PTSDとか抗うつも含む。一定の限度で精神も保護されている。精神の保護で言えば、自由に対する罪の方が強いだろうな、逮捕監禁罪における「移動の自由」、性犯罪における「性的自己決定の自由」、住居侵入罪における「誰に立ちいりを許すかの自由(管理権)」。勉強と思ってやっているからいっこうに吸収できなかったのだろうな。

 

さておき。

 

通勤のみちすがら、坂道を下っていると、ビールらしきアルミ缶が転がっていた。ちょうど後方から車がきていて、軌道が重なりそう。あぁこれ、缶がひしゃげる音聞かなきゃいけないなと覚悟したのだが、車の方が思いの外端に寄って通ったことによりタイヤに跳ね返っただけだった。反射したアルミ缶は、溝に落ちただけ。ちょっとほっとした。

 

仕事は普通。やはり自分は無知だなぁという感じ。難しいのが面白くはある。

 

 

そうして、劇評メモ。

 

終盤の動揺には、照明がやたらと落ちるから、終わってしまうのかという焦燥も含まれている。演劇を体感時間で測るとか無理でお尻が痛くなってきたことでなんとなく長時間であることは分かるのだが、具体的にあと何分かなんてわからんし。終わってしまう、終わってしまう、と焦っていたら、「もう覚えている」みたいな一言で終わってしまった。あと、どこを見たらいいか分からないのもある。山下さんがもぞもぞ動いているし、他の人も出て行ったと思ったらいつの間にか居るし。あぁ最初ドアが開けっぱなしで、間違ってないか大丈夫かとも思ったのだった。

 

台詞整理。何か派遣の仕事で、トラックに詰め込まれて、ゴムが付いた軍手じゃないと(僕もやったことあるからよく分かる)と、じゅんじゅわー。孤独死の人の部屋の片づけだったのだろうか。そのあとは、渡辺さんと伊那さんが掛け合いしつつ、山下さんが何かを叫んでいたような。ほんと曖昧。諸江さんがやってきたのはいつだったか。上を指さしていたのは覚えている。その後が伊那さんのドラムと、残さんのマイク。格闘ゲームのキャラクターみたいな動きはその後? 争いの話だから後か。乗るのがその後で、お姉系のおぞましいキャラが出てきたのがさらに後。その後はもう、いつ終わるかが気になって台詞どころではない。何人はきっと何人なのだろうが、違うほんとの意味の何人も含んでいそう。モノローグが成立していたのってほとんどないような。残さんが女の子の名前を連ねたのはいつだ。

 

こういう時系列がごっちゃになるのも思うつぼ?

 

いや、初見で台詞とシーンを覚えきるなんて無理よな。演劇でなければ謎の人をいっぱい眺めたかった。機会的な時間が少なすぎる(怒)←。最後のはかなり個人的な話だから違う。

 

ともあれ、たぶん、諸々の小道具(モニュメント)は、「あの日」とも認識されない過去の残骸なのだろうなという見方。出演者誰も見て(見えて)なかったよう気がする。触っても居なかったし(たぶん)。

 

誰にも気づかれないように死にたい、自分は他人の死を悲しむけど。みたいな台詞は覚えている。僕がそんな感じだから。

 

存在の話の続き。

 

物体としての情報と挙動としての情報は、人が生きている限り更新される。更新というより持続なのかもしれない。今日も隣に居る、今日も仕事に行けば居るみたいな。では、この物理的がなくなったとき、存在はどうなるか。だいたいは存在がなくなるはず。過去の仕事場の同僚を覚えている酔狂な人物はそんなに居ない。別に記憶力の問題でもない。

 

 

ある漫画で、人がほんとうに死ぬのは思い出話として語られなくなることだ、というフレーズがあった。父親の何回忌かで、お坊さんもそんなことを言っていたが、存在は誰かと共有しないと在らないのかとなると、それはないと思う。個人的で非常識的な見解だが、他者の存在は個人の中において固有のものであって、誰かと語ることにより顕現できるものではない。いや分かる部分もある。人が何を現実とするかにおいて、感覚器官の複数が一致することに依拠するという脳科学的見地からすれば、故人の記憶も幻想じゃないかと思ってしまい、一致を求めるという次第。

 

だから、幻想としての「あの日」にはなりたくない。そういえば演劇の言葉でも自分以外の人はほとんど出てこなかったような。

 

たしかに、自分が死ねば自分の存在は以後更新されない。ただ、更新されないからといってなくなるかというと、自分の中に残っている故人の挙動としての存在を鑑みるにんなことはありえない。別に僕は共有しようと思わないし、財産でもないけど、大事にはしている。

 

挙動としての文章的存在で考えると、影響値は最大限に抑えられるよなと思ったりなんだりする。物理的に接していないから他人だけど、存在としては認知されていて、なおかつ僕が物理的にうっかり無くなったとしても読んでいる人は特に悲しくない。謎の人もきっと悲しまないというか、僕が物理的に無くなったかどうかは分からないし特に気にしてもいない(と思われる)。

 

なるほど、だから僕は存在をここに寄せたのな。

 

という物体的な挙動だけではない言葉的(精神的?)挙動を存在とすると、小説も存在だし、なんなら言葉にも物理的な挙動になっていない何かも存在である。

 

大事にするために「好き」は前提にならない。直近の元恋人さんが、なんで自分のことを分かるのだって言っていたが、そんなの普通に見れば分かる。フロムさんが、自分のことを度外視して人のことを見ようとすれば、その人が怒っているのが分かると言っていたけど、そんな感じ。好きだと言ってくれないと言われたけど、そこに目を瞑ってくれれば、僕は割とこの人を大事にできていたと思う。大事にはしてくれていたし。良い人だった。

 

好きという嵐みたいな感情は嵐が収まったあとどうなるか分からない。個人的には嵐の間になにか愛着を見つけて継続するための発端みたいなものだと捉えている。

 

穏やかな大事で良いと思います。もしくは条件の交換で妥協するか。

 

僕にとってはどの「あの日」も幽霊ではない実在なんだよな。

 

あと二週間くらい劇評メモが続く、のか?

 

おしまい。