原因

 

 

昨日の日記が無題だったのは何故だろう。今日読み返しながら付けようと思ったが、読んでみても付ける気にはならなかった。名前が付けられない何か。

 

夢はアレだったから省略しようと思ったが、感触が生生しくないため、添い寝なり愛撫なり接吻としても観念的にしかならない。まぁ、物体より観念の方が大事ではある。よく登場してくれるのはありがたいが、何かが変化しそうだ。

 

さておき。

 

アレの余韻に浸りつつ、朝ごはんはもやしとワカメの味噌汁(もやしをごま油で炒めてから水とほんだしを加えると風味が良い)、と納豆ご飯。その後漫画を読んでしまったが、洗濯をしつつ、法定地上権について読む。なかなか面白い制度。編集が秀逸で声も好きめの実況動画の人のつぶやきで、オンオフで切り替えるのが良いということをよく聞くが、24時間体制で生きた方が上手くいくというフレーズがあり、僕もこっち寄りだなと思う。この人はの体制は仕事らしいが、僕はもっと全般的だ。この人の仕事の定義が明確に分からないためもっと近似しているのかもしれない。フロムさんも休むのは寝るときだけで良いとか言っていたな。

 

これはごりごりというか、かつかつで過ごすとかではなくちゃんと自分であることに準拠するということ。時間をちゃんと自分の選択をもって消費すると言い換えると一般的な語用くさい。

 

梅見というフレーズはなんとなく新鮮。この季節の花は慎ましくて目を凝らさないと見つからないところが好き。万博公園にでも行こうか、それとも全然知らないところに行こうかと想起する。東京の方に行っても面白いかも。願書が東京でしか交付していないという時代錯誤だから、そのついでに。まぁ郵送で手配できるから厳密には必要な移動ではないが。切手というシステムもちょっと遅いような気がする。物体としての文書はたしかに分かり易い。触れるものな。

 

そうして、スーパーからの帰り道、線路の向こう側にピンク色を見つけて、むずむずしてしまう。線路といってもすぐ渡れるようなところではなく、渡るためにはスーパーに引き返し、階段を下りて駅を通り抜けないといけない。気になったことには従う精神で引き返す。あっちを歩いたらすぐ帰れたのになと思いつつ、ピンク色の正体を見る。梅だとは思うが種類が分からない。花冠の1つ1つが大きい。ボタン桜みたいな。別に名称が知りたい訳でもないから調べなかった。

 

自分が自分で在ることには、意識の言語化も含まれるのだが別に万人に通じるようにとは思わなくなった。そもそも、日本語を識字できる人でも読み取り方は個別だし。仕様書とか説明書ならともかく。いっぱい読んでいるが、僕は僕に分かるようにしか文章を読み取っていないという経験則からの推論。小説は物体としての文字は客観的と言えるとしても、それを読む当人を通せば物語は当人固有のものになる。

 

ロミオとジュリエット面白かったな。揺るがせない社会制度。「脳は私ではない」でいう、固い理由か。人間が自由なのは、人の行動には原因があるとしても、それは必然ではなく柔らかい理由があるからだったか。固い理由を積み上げていくのが現代で言う大人なのかもしれない。次のシェイクスピアさんは何にしよう。やはりあらすじを知識として知っているだけでは足りなくて、自分を通して初めて血肉になる。通してない段階では全て想像の領域。

 

今日読んだ本ダイジェスト。

 

日本史は前のより雑くなくて良き。まだ縄文時代だが、縄文時代の食生活美味しそうだ。小学生時分、しいの実を生で食べていたのを思い出した。今考えると最強に不衛生だが、甘味があった。虎杖の酸味とか。抜歯文化とかもあったな。世界史はキリスト教の文化史。初期には皇帝崇拝を否定していたため迫害されていたとか。ふと、古代の儀式から分化したのが芸術だなと思いついたのだった。音楽、絵画、神話→物語。洪水神話は世界に点在しているというのもなかなか興味深い。

 

統計学はとても分かり易い。高校のとき、偏差値というものがあったが、これは平均を出して、個別の値との差を二乗して足していってルートにするみたいなものらしい。個人的にとてもスッキリする。ついでにExcelの関数も載っていて良き。

 

行動経済学では、ヒューリスティックという概念が出てきた。認知的近道と和訳されていて、なるほどと思う。色々概念があって再現はできないが、要は人は分かり易いところを判断の準拠とするという傾向にあるらしい。傾向を問題とするという意味で言えば統計学と仲良しだ。最初の例題みたいなもので、ある女性の経歴が記述されている中で、今のこの人はどうなっているかという項目がいくつかあり、可能性が高い順に並べてくださいというものがあり、個人的には「全部等価じゃね」と思った。行動経済的には生きていない。僕がいう可能性は、森さんが言っていたのと近くて、あるかないかでしかなく、あるとしてその中での比率みたいなものではない。比率っててきとーだろうし。

 

天気予報でいう平年並みって、過去三十年の同じ日で統計して真ん中の10年に入る日らしいよ。端的に言って雑なような。

 

思考地図で、「ヒトは危機的状況を予測できない」という命題があって、たしかに人類全般まで広げるとそうなんだろうなと思った。個人に落とし込むと、人は自分の死について考えることを全力で避ける。そのための時間つぶしとして現実に揺蕩うみたいな。トットさん最初は駄目かと思ったが、終盤になるにつけ好きになってきた。自分の人格は複数ある、同感。

 

 

僕が作者達をさん付けするのは、敬意を払っていないとかではなく、読んでしまうと知人みたいに感じてしまうため。固有名詞=物として捉えない普通の尊重。物体として接しなくても(接しない方が)仲良くなれる。検索避けという説もある。謎の人もこういう意味では知人なのだが、作者自体が観測圏内に在るため、ちょっとねじれている。

 

そういえば、新刊枠で読んでいる小川さん。言葉の置き方が1つ1つ丁寧だと読めて、あぁ、謎の人の文体とちょっと近いなと思う。祈りみたいだ。僕は祈りを言語化することはできるけど、祈るように言葉綴ることはできない。祈られるのが嬉しいというも、もしかしたら自分の祈りが誰にも見つけられていないことによるのかも。ただの情報として読まれることに対する諦め。ブログを見つけた僕に対して攻撃することはできないという説はありうる。言葉の配置の繊細さはとても好きなのはたしかだが。

 

つまるところ、人は傾向とか統計みたいな文化的先験性で世界も自分も見ているが、僕は、そういうのはなるべく度外視して、自分を通した世界を信じようと思う。

 

この世界でも謎の人は居るんだよな。謎のお行儀の良さ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。