わかりにくい

 

 

スーパーからの帰り路。暖かくはなってきたとは言え夜空は冬っぽいなと見上げていると、流れ星を見た。はじめ、あまりに近く見えて文字通り「燃え尽きた」からロケット花火か何かと思う。周りを見渡したが、住宅街で流石にそんなことはない。たまたまあの時間に見上げていないと見ることができない光景。網膜が捉えた景色が再現できる技術が生まれたとして、視力1.5の世界は解像度でいうと何ピクセル相当なのだろう。

 

休日の1日は捗った。朝ごはんは、昨日残ったおかず(鯖缶と厚揚げ諸々のカレーシチュー風煮込み)を食べ、本を読みながら、「高度な思考」とは何ぞやと考えていた。遡ることが高度なのか、あるいは拡げることなのか。ほんと、本を読むか、スーパーか本屋に行くかくらいしかしていない。あとはまぁ、ここで書いているか。

 

小川さんの本を読んでいて、ふと、そういえば人が近くに居た時の方が物理的に寒かったなと思い出した。移動頻度が増えるとか物理的要因とは別に精神的適応もあるのかもしれぬ。

 

さておき。

 

昼ご飯はちくわで親子丼風と、祖母印のラッキョウの甘酢漬け。

 

息抜きにアプリゲームとかもする。ゲームと言えば、ラミィキューブってどんなゲームなのだろうとルールを一読した。なるほど、ドンジャラみたいなもので、卓に出ている役も使って自分手札を消費できるところが特色なのか。僕は絶対てきとーにやるな。勝つために頭を使えない。麻雀とかも負ければそこそこ悔しいのだが、結論としては勝負ごとに合っていないとなる。こういうのって手札がどう配られるかという運ゲー要素もあるが、僕はこういう意味での運もない。違うとこで運を使っているのかも。

 

 

劇評について。ほとんど構成を考えていない。方向性くらいは考えているし、本日、僕が想像していたドラマーさんの視点から見た写真があっておーって思ったが。あと、謎の人の画像もあり、ほそっこいなと思う。腰の細さは、「ひたむきな星屑」の時に架空的に送ったような気がするが、まさか覚えてはなかろう。日記を読んでいると無茶苦茶食べているし、7キロくらいの変動は通常値だと書いているのに、変なの。

 

構成といえば、思考の遡りと拡がりと繋げると、遡りは問題ない。過去作を踏まえた記述。演出家もドラマトゥルクも変化したのかなという感じまでは書かないとしても、ここで書く分には劇評の概念に含まれるはず。

 

問題は拡がりの方。概念としては僕の中で繋がっているが、劇評という枠内でどこまで持ち出せるか。時間性の中でカントさんのアプリオリ説を出すのか、社会的争い軸だと社会学、哲学、史学が出てくるし、「あの日」=選択としての分岐であれば、行動経済学も出てくる。

 

素朴な僕のまなざしで書くといっても、素朴がこれなんだよな。何かを見るときには全人格で捉えようとする。演劇だろうが景色だろうが人だろうが客観的なものにはならない。という意味では割と集大成というか出発点というか分岐点みたいな大げさな論評になりかねないよなぁ。

 

全部書けることはないけど、なるべく漏らさずに書けば6000文字くらいにはなるという想定がある。2400文字って、最近の日記の文字数くらいだから、絞ればまぁなんとかなるけど、ぼくのまなざしではなくなるよな。なるほど、これが仕事か。やっぱりnoteのほうで完全版を書くべきか。と、まだ書いてもいないのに思っている。というか、文字も含め何かに完全版なんてないという説。謎の人を登場させたいところだが、やめとくだろうな。きっと勝手にもっと有名になる。

 

運の話で言えば、僕は自分の運を内的世界に全振りしていると思われる。例えば、本日読んでいる行動経済学に、最頻値という単語が出てきて、なんの説明もないのだが、読み合わせの中の統計学の本で2日前に説明がされているという繋がり。このたまたまが我ながら凄い。いや、たしかに分からなければ調べれば良いだけなのだが、調べなくて済むというショートカットは微妙な短縮だとしても、チリも積もれば。

 

こういうたまたまの運全振りの中において、謎の人はどういった存在なのだろうという疑問。僕とは無関係に楽しく生活しているように記述されているのだが、僕の無意識はほんとに楽しそうだったらとっくに離脱している。この辺りが不鮮明だったから色々波打った過去。

 

もちろん、僕にとっては昨日書いたように意味がある存在。僕に読まれて嬉しいかどうかは知らないが、ぽつぽつ書いていた独り言の文章に一目惚れしたのが発端で、何故か僕を見てくれいている。

 

真面目に考察すると、謎の人は人のことが見たいと自分で言ってiたし、別に見る対象として僕が固有な訳ではない。実際会員になってまでいろんな人の日記を見ている訳で。律儀に毎日お行儀が良い意味はほんとだとしたら謎だが。

 

見られたいという欲動の面は、公園のはとぽっぽにも無視される存在の希薄さという自己評価からすれば、ずいぶんと人が自分のことを見てくれいる生活ぽいし、問題ないように見受けられなくもない。

 

自分が日記を書いているのが謎だと評していたが、たしかに僕から見ても謎。個人的には美味しくてありがたいが、あえて僕に見えるようにする意味もない。意味と言うか意義か。雑な日記描写は、当人のものではないとすれば、誰由来でしょう。

 

という文脈で、恋愛感情でもない観測的な意味で大丈夫かと思ってしまう。

まず、何の感情的背景もなく僕を継続的に読めるという時点でアレだし、もっと言うと、僕の経験則と連動させて。

 

お酒を飲んで記憶を飛ばしたことは僕も何度もあるが、どうしても楽しさとはセットにならない。もっと近いのは、どうでも良さ。結局なんだかんだ帰れるし、家で寝ているから良いのだが、個人的に気になるのが、どうして意識を途切れさせたいのかというというところ。わいわいやっている中の誰かだったら気にならないが、僕は謎の人に掬ってもらった感があるから、無茶しているというか、自分を蔑ろにしていなかろうかというところがとても気にかかる。

 

蔑ろにしているのは二日酔いになった肉体ではなくもっと中の方のこと。

精神を途切れさせないと成り立たない生活とは。

 

好きを除けば公開量が多くて美味しいだけだが、無駄に心配になる。

だから居なくなれない、のか?

 

劇評1回分の文字数終わり。

 

おしまい。