ただのスケッチ

 

 

目覚めると7時過ぎで、あと2時間は二度寝できるなと仕事モードになっていた。よくよく考えるとまだ日曜日であった。何故仕事モードになっていたのかは謎過ぎる。実際は完全に日曜日的に過ごした。最近週1でカップ麺を食べている気がする。お手軽だが週1でも飽きてくるな。次の休みはオムライスでも作るか。

 

アプリゲームは、1周目終了。某超能力小学生のスーファミRPGのドット画を想起させる、人の心の中に入ることができるアプリを使って進めていくゲーム。ヒロインがイマジナリーフレンドで、アプリ製作者が二重人格で、と心理学満載な面白さ。ただ、今の僕はイマジナリーフレンドと実体がある友人がどの程度違うのだろうと思う次第。都合の良さくらいの違いはある。友達も人格も追加で創るのは何かを埋める都合の良さを求めるものだろうし。

 

謎の人は、自己像から乖離した自分のことを指摘されることは嫌悪対象だと思うのだが、僕が何を書いても一定の頻度で読んでいるだろうと観測されるのは謎だ。

 

昨日の、アルコールによる意識の断絶はあくまで僕の話。「どうでも良さ」は言い過ぎかもしれないが、「やり過ごし」感は否めない。僕が初めて意識を飛ばしたのはこの家で同棲しているときの院の頃の冬で、大学時代の友人が集まって鍋をしたとき。そのあとボーリングに徒歩で行ったのだが、道中の意識がなく、気付いたらーリング場の席に座っていたという、睡眠を経ないパターン。

 

省みると、恋人と一緒に住んでいるし院にも通っているし友人もそこそこ居て、客観的にはまぁまぁ充実していると言える状況ではあったのだが、主観的には完全にキャパオーバーだったと思われる。20代だいたいこんな感じで、よく深酒していたなぁ。飲めば飲むほど帰りたくなるのも、なんというかいたたまれなくなったのか、場に居たくなかったのか。今思うと、「やり過ごし」感が嫌だったのだろうなとは思う。あんまり言語化できないけど、端的にわいわい過ごすのに向いていないから、無理やりアルコールでやり過ごしている自分。

 

でも個人的にこういった「饗宴」みたいなものを否定している訳ではない。某リアルタイムライブ、最後の辺りをちらっと見たところ、皆トランス状態で儀式感があり、これは「やり過ごし」というより、もっと肯定的に「一体感」と言って良いなって。この文脈ではアルコールも、投与により自我の殻を柔らかくして混ざりやすくできるというメリットはある。

 

僕には合わなったかというだけ。

 

儀式としての一体感と言えば、世界文化史で、キリスト教においてご飯を一緒に食べるという行為は儀式とされている話があり、なるほどとなる。確かに家族の食卓って必ず集合しないといけないし、儀式めいていたなと。ほんとは一体ではないものを一体とさせるための行動様式。家族団らんが情緒を養うとは言われるが、テレビばっかり見ていても情緒は養われないし、そもそもなんでも話して良い場ではなかったような気がする。たぶん頭の中に逃避していた。

 

こういうところなのだろうな。誰にも自分のことは話さなくても良いという観念。

 

謎の人に対してもブレていない。ただ、僕は謎の人については深く考えていると思われる。もう1回ただを重ねて、近いとは思っていないんだよな。近く在るため解決策を考えているのとも違う。遠いから深く考えられる。

 

ちょっと洋子さんを挟んで。姉と同じ名前、ではないな、姉は羊へんで読み方も違う。小説の中で小説家が小説を書いている。声を失くしたタイプライターが主人公。で、タイプの先生が黒幕で、タイプライターも奪われて、発語を全て閉じられてしまう。先生は、僕が完全に統制してあげるから大丈夫ってなかなかグロい発言をする。その後、小説の中での現実に戻って、銀食器を磨くだけの仕事をしている人は、声を失っていくというエピソードがあった。

 

ここで想起したのは、人って人間の要素のあらゆることを商売道具に転換しているよなということ。今の仕事は知識と声を仕事道具にしているし、単純な力仕事とか、夜の仕事では体(ベクトルは違うが)。もっと単純な世界ではこういうのは結果が仕事として価値を持つものだったが、過程が価値になったのは資本主義の効果よな。ちょっと深みに入りそうだから省略して、僕の結論としては、なんでも仕事に転換できるのであれば、文章が仕事になる忌避感ももつ必要がないなということ。どうせどの挙動も自分の虚像くらいな意味しかない。

 

どうでも良いけど、謎の人への毎日の発信もある意味儀式めいている。一体感なんて強固な感覚ではなく、もっとおぼろげであやふやだが。読みに来ている人が謎の人でないということになったら、この繋がっている感はその人に移行されるだけ。なんとなく見てくれていることが文章化されている気がするから一応そういうことにしているが、全然確信がないので。確信なんてどこで得られるのだろう。直に触れていて、好きだと言ってくれた人さえ離れて行ったのに。いや、これは僕の自業自得もあるが。

 

本日はだいたいぼーっとゲームばかりしていたという自己観測なのに、なんだかんだ書き始めると、まとまって発掘されるな。あんまり言葉で考えていないと実感するのがこういうところ。あんまり記録とも記憶とも関係がない。

 

法律学の話もなるべく本の話に含めたい。高尚なお勉強とすると全然再現ができなくなるため。

 

本日は性犯罪のところを読んでいた。刑法学者でここまでジェンダーとか同意年齢とか暴行または強迫要件について書いているのは初めて見た。真面目に書くと日記1本分以上になるからほどほどに省略するが、性的自己決定って「誰に自分の体を触れされるのか」を決める自由の延長にある。この渦中になる前、スキンシップというか、気軽に触るのが当たり前だったように思う。特に男に対して。僕は思春期まではこういうのに従ってきたけれど、どうも違和感があった。まぁそんなにべたべたはないけど、軽くたたくみたいなやつ。だから、僕から両性にそうそう触れないし、触れることが近いのかというのも違うような。やすやすと他人に触れなくなった今はとても楽である。

 

ただ、この個体差をどこまで社会的な刑罰に反映させるかとなるとかなり難しいよな。やはり物理的な接触度に寄らざるを得ないし、強制性交が不同意だけで犯罪になるとしたら、不同意をどうやって証明するのかがとても難解。供述証拠だけでは無理だとしたら、どういった状況でそうなったのかを詳細に見ていかないといけない。学級会ではないのだから、発言だけで判断される世界でもなし。

 

あと、保護責任者遺棄と「誰も知らない」の映画のことを思い出したが、時間制限。

 

本日の本題。

 

イマジナリーフレンドと、生身がある人の近似について。

これは、記録とか記憶のこと。

 

行動経済学を読んでいて、価値と確率から効用を算出するというのは分かるが、現実世界の選択において、そんな分かり易い選択はあるかと反論しつつ、プルーストさんの他人を知人とするのは「知識」だというフレーズ(二週目)とか諸々ブレンドされ、「そもそも生身がある人ことすら把握できてないよな」という命題が浮かぶ。

 

まず、人が何かを覚えているかどうかは、操作性がない。自分が意志したことだけ覚えていられるということでは話は変わってくるが、同じものを誰かと観たとして、すぐあとなら共有できるかもしれないが、三日後、一年後、三十年後ならどうか。

 

この何を覚えているのかは、人格そのものであり、当人の意志とは非連動の関係にある。誰かの情報について「忘れていない」という事実は、よほどこねくりまわしていなければ当人の意志ではなく脳が無意識に判断していることであって、大事だから忘れていないではなく、意識化できるから大事だということだと思われる。

 

僕は、人の本質をこういうブラックボックス的なものとみているから、いくら知っても分からない。傾向でないその人ばかりが気になる。

 

関係ではどうなるかというと、自分が大切だとしている共有されているだろう情報について相手は覚えてなかったとき、自分が大切にされていないとなるとすると、かなり主観的な領域。相手はどこに行ったのだ。自分の世界だけのその人であれば、イマジナリーフレンドとどう違う?

 

この見解までくるのに随分かかった。主観で見るのが普通だったから。

人を読むときに自分にとってどうかとかどうでも良い。

 

何かだけ覚えていられるという都合の良いデータベースはなく、何が引っかかって覚えているかどうかも分からないのが人。この感覚でもう1回リセットしてやり直したい感はある。もっと楽しそうだ。

 

という領域で見ると、謎の人が僕を読みにくるのは、やはりあまり言語化できないな。

 

そろそろ1回4000文字までいくのかな。

 

おしまい。

 

では、おやすみなさい。