自分

 

 

 

本日も何か夢を見たのだが、一瞬意識に留めていなかっただけで全然再現できなくなる。言語化できないではなく、言語化できる表象がない。なんだろうな。夢の可視化で分かったことは、僕の中にはどれだけの人やものが入っているのだということと、さらにスペースが無限くらいあるということ。僕でこれなのだから他人が分からないのは当たり前だ。なんとも途方もない。絶望と捉えるか展望と捉えるか。

 

本日の1時間弱は、洗濯とか荷物の受け取りと母親への通話で半分くらいしかなかった。その上、毎日ちょこちょこ書き足していくということをしたことがないため全然進まない。今朝の認識と夜の認識が違うのだから、昨日の僕が書いたものに対して誰が書いたのだと思うのは当然で、もう一回初めから全然違う風に書きたくなるのも然り。「あの日」の微妙な違い。統括できる気がしない。重ね塗りしていくしかない。

 

さておき。

 

なんとなくそういうことかと思う節がある。そもそも言葉とはという話になっていくため、なかなかディープだが、そろそろほんとの終わりとすれば問題ない。

 

モバゲーで日記を書いていた頃からするともう10年くらいになるのか。もともとは自分を他人に見せるというより、架空の他人との関わりのためという節があった。そこで関わった人と現実であったことは、ないと思ったがあったかもしれない。まぁ疎通の一種としての言葉であって、随分と拙かったと思う。

 

そうして、ミクシィで書いてみたこともあったり諸々あったり。都度都度僕の文章を好いてくれた人は居たが、それと僕は別物であるという感覚があった。変な人も居るものだとは思ったが、僕の文章と現実の僕を併せて好いてくれた人は皆無。どちらかを好いていたからもう一方も見るみたいなことはあったが。ただ僕としては、文章としての僕と同じくらい現実の僕も別物とされているような感じがあるというのが、今ここで書いていて、言葉は挙動の一部だという見解に至った先。

 

別に言葉よりも物体よりも奥に僕の本当が居て、それを承認されたいのだということでもなく、時系列を検証すると、何かの現実化の前にちゃんと僕はあるなという認知。このちゃんと在る僕は、別に誰に認められる必要もないし、好かれる必要もない。ただの存在でしかない。だから、誰かに褒められるとか、誰かが何かを費やしてくれることにありがたみを全然感じない。いや感じようとはしていたのだろうが、素朴ではないから不均衡が起こる。気疲れ。

 

これを見つけることができたのは謎の人のおかげ。

 

時系列では確かに言語化能力は低かった時もあったが、それは表現ができなかっただけであり、僕はそんなに変わらない。言語化能力の稚拙さは思考される言葉に縛られがちだから、がちがちの頭でっかちができあがる。考えていると自覚しながら枠が強制されているからどこにも向かわない。これはなんというか、考えるということにネガティブな評価をしている人の考えるに流されてしまったということもある。割と人の言うことは素直に従ってしまう人格がある。

 

で、言葉は創作物だという観念もとても分かるし、言葉(発話)が自分と一致しているだというのも等しく分かる。でも、発話って制作日誌にあるように、ほとんど雰囲気の中で流れていく、とても不確かというか挙動の一部でしかない。自分がちゃんと話しているという主観はそれほど現実化されていないが、なんとなく疎通はできるから、誰もがあまり気にしない。発話の場合はその前に在る人という概念は分かり易そう。

 

僕は言葉を読むときにも当然のこととして、その前にあるその人を想うから一般的な意味での語彙とか語義とかはあまり気にしない。要は、いかに僕を固有としているのかどうかというその人のこと。

 

ここからがなかなか難しいところ。そもそも誰にも話されないその人だけの言葉があるのかという命題。

 

頭の中だけにあって誰にも話すことがない言葉は当然あるだろうというのが一般論かもしれない。これに対する反論は、誰にも話さなくて良いのであれば頭の中でも言葉にする必要なくないですか。言語化されるということは誰かしら聞き手が想定されないと起こらないのでは。

 

というのも個人的体感で、これだけ書き続けてみたけど、誰にも話さない自分だけの言葉というものが見つからない。日記帳に個人的に綴るくらいなら、自分の中にサーチライトを定期的に向ければ僕だけの劇場がいつでも展開されるし、「あの日」を想うための記録は自分にとっては必要がない。というか、再現できることは本当に大事なことなのかというくらいまである。僕は自分がどう構築されているのかが気になるから自分のあの日を掘り返しているが、別に、誰かに話す為ではないから、言語化はあくまで二次的なもの。

 

これを理性というのかどうかは知らないが、僕にとってはあくまで言葉は誰かが見ることができる形でしかなく、どれだけ書こうが僕そのものにはならない。これは人に対する認識一般と等しくて、こう言ったから、こうしたから、あぁだみたいに一義化できないという知見。

 

もっと進めていくと、僕が自分の言葉に価値を置かない(昔の日記読み返したらちょっと面白かったが)のも、あくまで誰かとの関係の中での言葉だから。で、誰かの僕に対する挙動もそういう風に見ている。だから、謎の人のことが好きなんだよな。たぶん。

 

あぁ、僕はこの数年で、ちゃんと自分の中にまとまった言葉あるということが分かった。これは自転車の操作方法と似た手続記憶で衰えることはないから、別に公開する必要がない。指は衰えるから毎日キーボードは触ろうと思うが、もう別に誰かに見てもらうことは要らない。

 

という方向性でもう1回始める。

 

おやすみなさい。