復元

 

 

 

夢から覚めると、唐突に思い出せなかった昨日の夢が思い出された。おそらく人の記憶は状況で分類されていて、同じような状況が起こると比較対象として浮かんでくるのだろうな。という経験的分析。謎の人が僕を覚えているとすれば、現実において舞台に上がっているときに観客として登場してくる人物だからだろうという推論に繋がる。

 

とはいえ、夢はどちらともあまり面白いものではなかった。昨日の夢の前半は、生きている父親が下世話な話ばかりを振ってきてうんざりするシーン。現実的に知るというのもデメリットがあるんだなと思う。おそらく実際はそんな人物ではないのは言語化の仕方が似ているところからして分かるのだが、あくまで可能性として。後半は、バトミントンのラケットでオオスズメバチを退治したら、かっこいい、貴方に嫁ぎますという人物がいた。実際に出逢ってきた誰とも違う人。何か下心が見えて嫌だった。別に思い出さなくても良かったな。

 

本日の夢は、ストーカー(男)が現れた。前半は父親が車を運転しながら化石にはしゃいでいる話だったのだが、いつのまにか運転しているのが入り浸っていた友人になり、山道で迷子の小学生を保護するとかなんだで、警察官に相談するとなったとき、その警察官が僕が捨ててきたカード(おそらく記憶のようなもの)を見せてきて、こわ、となる。で、言い分はもとのストーカーから譲り受けて面白くなったとか。余計に怖いし、追いかけてくる。

 

なんだかんだ友人が運転する車で逃げるのだが、いつの間にか僕は山道を1人で歩いて逃げている。そうするとタクシーにのったストーカーの姿が見えて、ヤバイ、と道路ではない道を走るのだが、結局追いつかれてしまう。で、何を言い出すかと想えば、このままでは僕も帰れないので、友人さんを見つけるのに協力しますよって。意味が分からなくて余計にこわっていう感情と共に目覚めた。

 

それでも本日の精神は随分とすっきりとしている。言葉と存在と関係とか、シンプルなところに落ち着こうとしているなという感じ。

 

BGMは、「おやすみなさい」を読み返していて出てきたアジカン。よく聞いていたし歌っていたから、懐かしい。今は「君という花」。個人的には有名どころではない曲が好きだ。いや、何が有名で何が有名ではないかも良く知らんが。「羅針盤」とか「ムスタング」とか、ロケットに乗った犬の曲ってなんだっけ。あ、「ライカ」だ。このあたりの歌手は一番長く過ごした恋人さんからの伝授感はある。いや違うか、逢う前からカラオケの為に聞いていた感。

 

劇評は1500文字ちょいまでは進んだ。「あの日」と「争い」って主に個人の中にあるものよなというところまできている。そう考えると、モニュメントが外に顕われないもので、出演者さんたちの動きが「あの日」として話すことができる自分の中身。真面目な文章は自分の中にこんな見解があったのかという発見みたいな機能がある。ネタバレはあまりしないでおこう。

 

栄養学はなかなかいい本が見つからない。「脳の不調を治す食事」は精神科医でかつ栄養士の人が書いている本で美味しそうではあるが、ほんとに美味しいと感じたら即購入のはずで、他の本も立ち読みしてみたが、なんとなくしっくりこない。栄養的な意味では不調はないからあまり一般的な本読んでも仕方ないし。食材で偏らなきゃなんとでもなるだろうと思っている。本日は送られてきたいりこと白菜の和え物が副菜。草は消化が悪いが、腸を掃除するんだろうなと勝手に思っている。ベビーリーフミックス美味しい。「思考地図」も終わってしまった。

 

「ブラックアウト」なう。

 

一応ブックオフにも寄った。やはり良さげな栄養学はなかったが、法学のところにあった、法学のための文章作法みたいな本をぱらぱらめくっていると、ヴィトゲンシュタインが出てきて、人間は記号(言葉)を操作することによって思考しているとのフレーズ。もう1つ、出自は忘れたが、言語は社会的無意識にインストールされているという話。

 

(主に謎の人に対して)、言葉は道具でしかなくて、人の感情を動かすことはできないなぁと思っていたのはともかく、もう1回昨日の命題。当人固有の言葉というものがあるのか。

 

おそらくあると思っている人は、言葉に対してまず読み手、聞き手としての自分が前提に在る。言葉としての記号でしか思考できないというのもここにある。ただ、この読み手、聞き手としての自分はどうやってできたかと考えると、誰かが居ないと構築されていない。素朴な言葉はまずは発話に違いないが、この発話は言葉を覚えた頃に周りが話していた発話を聞き取った学習による。社会的法則みたいなもの。

 

この発話としての疎通はあまり言葉とか文法とは関係なく、なんとなく通じてしまう。僕だけではないと信じたいが、中学校の国語の文法法則を知ってぎょっとする。書き言葉と話し言葉は全然違うのかって。昔はもっと乖離していた。でも今のこの時代だと発話と文章が一致しつつある。この話は良いか。

 

で、素朴な言葉が自分にあるという認識はおそらく通用数の多さか、単なる慣れくらいの意味合いしかないという説。発話→文章の形成過程においてどう考えても相手ありきなのだだが、味を占めてしまうと自分のものになってしまう。穴倉の中の自分の言葉と自分自身の癒着。

 

まぁ、これは僕がもともと自分は読者にも聞き手にもなりえないという感覚だからかもしれない。誰にでも伝わる形で自分の思考を留めておきたいという欲動はないが、一応言語化もできますよというくらい。

 

思考が記号の操作という説からしても、内部において記号は言葉でなくても良い。言葉でないといけなくなるのは、誰かに説明することが前提になる。「あの日」と同じ。もっと柔らかく表現するならば、潜在的な読み手が居ないと文章は起らない。

 

とすると、僕の文章群の最近はほとんど、謎の人を潜在的な読者として構築されている。劇評も然り。謎の人向けに書きたかったのではなく、謎の人向けにしなくては文章が顕われない。公開という形式だが別に誰に対しても話したい訳でもない。自分が広く知られることには意味がなく、知りたいと思っている人が知ってくれればそれで良い。

 

だから、現実的にも話している想定が浮かんでしまうのだろうな。

 

逆から考えても、謎の人が一般的読者の中に僕を潜在的な読者として書いているのは言語の機能としては当たり前のことで、別にそこに何かの意志がある訳ではない。通じる人には通じるように書くというだけ。

 

言語と言えば、古代ギリシャ語には、能動態と受動態とは別に中動態という形式があるらしい。自分に向けるときはこう書かないといけない。記号としての文章と考えれば、形式だけで情報が分かるのは勘弁だけど、情緒もへったくれもないなと思う日本語族。まぁ古代ギリシャでも発話はもっと雑だったろうなと思う。

 

という感じでおやすみなさい。