着の身着のまま

 

 

なんで昨日の日記は更新されていなかったのか。Wordの機能はなかなか優秀。そうして謎の人はやはり謎可愛い。←

 

さておき。

 

本日はとてつもなく官能的で背徳的な夢を見た。肉体的に欲求不満なのは良いが、せめて夢の中ではもう少し気持ち良くさせて欲しいぜ無意識よ。のしかかられ、入ってくる舌の味がとても苦くて、体は反応していても遺伝子が拒否している。まぁ、別に倫理観は行動基準にはならないが、あえて倫理に逆張りすることはないな。と、ほんと嫌な記憶もセットで蘇る。背徳感が恋愛的な感情の熱量になる人っているよな。黒歴史

 

割と浮気相手という立ち位置は心地よかった。恋人関係肉体関係ないのも含めて指で数えて、5人目の人か、別にどうでも良いかという感じで付き合っていた。肉感が心地よかったのかというと微妙なところ。この人が良いなら良いかという感じ。理不尽な感情の波もあったが、最終的には本命のことも相談されるくらいになるというよく分からない話。僕は自分にパートナーが居るときはこんなことはないのだが、フリーの時は割とやらかす。やめとけと思うほど相手の相手のこと知らないし。

 

因果応報で、のちに恋人さんの時に浮気されることになるのだが、それまでも今でも他人の携帯の中身なぞ興味はないのに、あの時だけ触ってしまうという地獄。無意識レーダー勘弁してくれ。もうそろそろ家の前だが大丈夫かというやり取りを見てしまう。まじで地獄。もうその時点で切ってしまえば良かったのだろうが、それもできないヘタレという。僕は倫理観はないが、罪悪感を抱きながら浮気するとか時系列上ない。フリーの時は知ったことではないから、別基準だが。仮にパートナーに不満があったとして、それを他人で埋められるという感覚がどうも分からない。理解はできるが、自分にはその観念はない。結果的に倫理的に高潔に見えるが、そんなこともなく。

 

そういえば、本日の夢、別シーンで謎の人も登場していた。ようつべでライブを見た某人とセットで、某草原の画像からさらにデフォルメされたキャラクターのような感じ。靴下を一方だけ履いて徘徊する酔っぱらい。いや、自分よ、現実で見た時にもっと官能的に捉えてるやん、官能的な夢の方に入れてくれよとクレームを入れたい。このシーンに僕は居ないから触ることもできない。某人がでてきたのは、エキセントリックな風貌とこの前現実で見かけた人柄にギャップがあったからだろうなと想像する。僕より先に最短ルート通ったはずなのに、何故か僕より後に劇場に入ってきて、なおかつすみません、すみませんってめちゃくちゃ腰が低い感じで席に座るという。めっちゃ良い人っぽい。謎の人が好きなのもしかるべく。

 

僕の中では現実の範囲が広いのかもしれない。本日の仕事で先生のキャパオーバーによる不機嫌に当てられたのだが、おそらく当人の中では、不機嫌になってしまった自分への嫌悪感と、いや、でも不機嫌にさせる世界が悪いとの正当化の闘争が繰り広げられるのだろうなという想像も現実に含む。不機嫌に当てられることは嫌なことには違いないとしても、別に理不尽だとは思わない。最後謝ってくれたが、いやこちらこそタイミング悪くて申し訳ないです、だった。仕事上(都合の)良い人だから負荷がどうしても集中してしまう。

 

こうやって割と他人のことを考えるのだが、一応僕の中にも仕事上の理不尽性への不満はある。古参で上司と仲良い人が上司と席が近く雑談しているから、案件を聞きに行くタイミングが難しい。でもこの不満って別にどうでも良いこと。この怒気にエネルギー消費するよりいかに聞かずに済ませるかにエネルギーを使う方が良い。こっちは自分の中だけでできるし。自己完結のようで少し違う。

 

世界ってなんだというものが聞いていたのと随分違ってきている。

 

人間は自由なのかという命題は、結局のところ操作性のことだろう。

 

人間は脳に囚われていないという意志の自由は、物理法則とのバランスでしかない。人は生身では空を飛ぶことはできないけど、外国に移動することはできるし、仕事が嫌なら辞めることもできる。「できない」に囚われるのは、物理法則というより心理法則の方。浮気された恋人さんの慧眼だなと思ったフレーズ。月経時は痛いし不安定になるけれど、そうだと知っていればある程度制御できるみたいな。よく分からないがすげぇ人だなと思った印象。たしかに自分の不安定さの理由が分かれば調整は可能よな。

 

物理法則で言えば、この調整可能性が自由ということ。当然なことながら、この対象は他人ではなく当人。自分を調整する努力を放棄して他人を変えようとするから諍いが起こるのではなかろうか。僕がそれをするとしたら完全にどうしようもなくなった、満を持してだな。まぁ素朴に考えて、調整しなくて良い確固とした自己観が形成されているのが大人だとは思われるが、巻き込まれる謂われもない。この辺りが争いが人間に必然的に付着しているという観念の中核だと推測されるが、その自己観ってほんとに吟味したのかと問いたい(実際に問えることはない)。

 

発話を観測したとき、人って別に自分を話したい訳ではなく、この確固とされている自分から見た世界を語りたいだけなのだろうなと見える。失礼かもしれないが、人生の時間を潰すための発話でしかないのだろうなという感じ。僕はこういう文脈で発話したいことは全然ない。まぁ現実的関係において、挙動としての発話は肉体と分離できない。声がないと認識できないだろうし。

 

 

もう1つ、言語の操作性。この日記を書く前は、文体は癖でしかなく、癖は改変できるものだから、操作できると考えた。ただ、どう操作しても動かせない文体もあるなという自分史学。体言止めを多用するところとか、倒置法とか、素朴な発話と一致している。なんというか、自分を薄くして書ける人ってどう書いているのだろうとは気になるが、僕にはどうも書けなさそう。匿名ライターのサイトで書いてもだいたい通らない。通すように書こうとすればするほどやたらとしんどい。まず、調べれば分かる情報なんて書きたくないし。

 

言語の自由性にはもう1段階あって、どこまで書けるのかというところ。普通に書いている人は、自分が書きたいこと(自分を読み手として)で済むのだろうが、僕としては読んでいる人がどこまでついてこられるのかというところがある。情報ではなく、素朴な僕。真摯に向き合えば、対象に対する評価は全人格的なものになり、確固とした自分から見た世界では収まらなくなる。客観的な話ではないと思わせて、客観に耐えうる説明くらいはできるが、真摯に世界を見ている人はほとんどいない。

 

謎の人は謎に着いてきている感じがして謎だ。

 

では、おやすみなさい。