滅裂

 

 

昨日の自分の感想、全く浄化されてねぇ。

 

半日くらい虚無で過ごした。「うるさい」って言われる夢。ほんとに思われてそうでダメージというか、あぁ、やっぱりそうだろうなと納得する。夕方以降に本を読みだすと平衡を取り戻して、自分の人格とはさぞたくさんあるのだなぁと、人格会議が行われる。

 

さておき。

 

自分と同じ「もの」を見た他の人の文章を読むのは面白い。縦書き好きだ。この人の文体とアイコンで半年前くらいに「ラブレター、、、」の感想小説書いていた人だなと気付く。時間の流れおかしいのかな。当時もPOPな文体だなと思ったのだった。あえて拙く書いているところもある? いまどきの文章はあまり分からない。2週間前のあの日というフレーズは使いたいよな、固有名詞で書かずにはいれないよな、分かる。現場からは以上です、のフレーズを使う辺り、制作日誌も当然予習済みかとか。これは感想というより、文体を読んだ自分から見えたその人みたいなことなのか。同居人か? いやイメージと違うな。競争が苦手だというところからも素朴なこの人物には好感が持てるが、さらに掘り下げて読んでいきたいとはならなかった。

 

読んでいて思ったのが、僕は自分の固有の「あの日」を書いてない。内部的には「あの日」が細分化し過ぎていてあまり書きようがないのだが、どうして書かなかったのだろう。まぁ、遡った連作のあの日は固有だし、完全に自分のことを書くすきまは無かったか。

 

そうして、劇評を書いた人とのやり取りを見て、僕の文章、劇評として大丈夫かという想念が再起する。やっぱり自分のnoteで書いた方が良かったのでは、とか、そもそも3本書いていて「劇評」とはなんぞやが分かって居ない分際でお金もらって書くべきではなかったのではという後ろめたさ。「やってみることに価値があったのじゃ」みたいな老師みたいな人格が出てきたが、仕事としてやっちゃいけなかったのではと素朴な奴が反論していた。

 

素朴に「劇評」とはなんぞやを考えてみると、①演劇に込められたメッセージを読み解く、②演劇全体からみた相対的な置き所を決める、③読み取った自分の独自の見解に辿りつくみたいなイメージなのだが、合っているだろうか。評論って対象に対してああだこうだ述べるだけではなく、対象から主観に昇華するものでは。いや、これ僕が本を読むときの姿勢みたいなところがあるから、全然違うのかもしれない。基本的に②の部分がてきとーで、というか比較できるほど対象がなく、一般的な評論ぽくないよなぁとは思う。まともだったのは「ひたむきな星屑」だけで、皆勤賞というえこひいきでしかないのかもしれない。んなことないだろうと楽観する人格も当然居るのだが、昼間の人格はびくびくしている。昼間が書いたくせに。

 

人格会議。

 

AB型は二重人格だと言いますが、たしかに僕はこの評価を多々受けてきた。普段おとなしいのに酔ったら良く話すとか一般論みたいなところから、恋人さんからすら何考えているか分からないと言われるとか。前者は日常において自分を話す必要を全然感じておらず、酔ったら無駄話が増えるということでしかないと気づいたが、後者の方は分析中。自分は分析しても良いが、他人は見るか想うしかできないよなというスタンス。

 

そもそも人格とは何か。1つの肉体という器にある当人の精神と外から捉えれば1人に1つということになりそうだが、実際はもっと抽象的なものなのではなかろうか。例えば、対象に接したときの反応、想起、思考がある程度一貫しているみたいなものが1つの人格であるという定義。

 

以下、フィクションみたいなもの。

 

某人と付き合っていた頃、正式なのか自称なのか知らない(真偽に興味がない)が、解離性うんちゃらで、切り替わると声色とか考え方ががらっと変わったように見えた。僕が好きだったのはイケボみたいな声の統括ちゃんないし可愛げのある外面ちゃん。普通に許容し、別人格として接していたのだが、やはり対象の情報は共有されているようで、誰かだけ好きと評したことについて怒られたのである。

 

以上。

 

たしかに、外に顕われる人格としては、通常1つの肉体に1つだろうから、僕が人格的に1つであると捉えられるのは問題ない。この人の人格にはこういう面もあるのだと情報が拡張されるだけだろう。矛盾したときにどっちが採用されるかといえば、まずは頻度が多い方で、危険度が高ければ1回でも優先されるかもしれない。

 

ただ、内側の自分を分析したとき、一定の思考体系ないし価値体系を保有している複数の領域があるような気がする。僕の外面ちゃんは、人と接しているとき、その人の見ようとしないし考えようともしない。何も知らないですで通そうとする。まぁ現実的な所作として人って他人にそんなに純粋な興味がないように見えるからそれに倣ったのだろう。ここになると何も考えられなくて、箱に入れられた蚤みたいな気分になる。ある漫画で、蚤は箱に入れられると箱の高さしか飛べなくなり、箱から出されても飛ぶ上限は箱の高さになるというシーンがあった。学生時代、たぶん今でも実家に帰るとそうなる。思考放棄の外面人格。

 

舞台裏に呪詛はないはないと昨日書いたが、呪詛的人格はある。世界に対してではなくひたすら自分に向けられる呪詛。至らなかった自分をひたすらカウントしている。これもまぁまぁ根深い。ネガティブ要素はここから来ている。挙動すればするほど至らないことが増えるのだから、いっそ何もしない方が平衡を保てる。だから言葉で自分を共有することに意義を感じないし、どうでも良くなる。投げやり野郎。努力とか幸福がカウントできない。自分が書いてきた文章を消すことになんの躊躇もなさそうなのもこいつか。

 

これに対して怒っているのが憤怒氏なのだろうな。自分が至らなかったと思っているほど他人は自分のこと覚えていないのだからもっと自由に生きろよと。あと、見てくれている人も居るだろうって。

 

もっと細分化すれば、昨日のトータルの自分の人格と今日のそれの微差とか、深酒した後の自分が知覚する世界はぼやけているとか、統括しようがない。

 

ただ、1点揺るがないのは、情報は共有されているということ。

過去が変えられるという見解は、今にとって「あの日」はどうだったかの評価、解釈を変えるために生きるという意味と思われる。

 

統括というのは、外に顕われる自分を決めることであって、中を統御することではないような。外については対象によって勝手に切り替わっているからより自分で居られる人と接すれば良い。

 

謎の人に対する人格会議も可視化、するのか、、、

 

劣情野郎はひたすら物理的接触を欲している。これは、もっと情報を増やしたいという欲動であり、女体ならなんでもではないからまぁ良い(よくない)。これに対して、常識人がいや、物理的継続的な近さなんてほとんど意味ないやん、謎の人の生活に溶け込む気もない癖にと宣う。たしかにーと賛成過半数になりそう。ついでに、好きになるならもっとレスポンスがあって恋人になってくれる人にエネルギー遣うのが効率的だという効率厨が言う。

 

いやしかし、と考えているのが憤怒氏なのだろう。

恋人になってくれた人が僕のことをここまで見てくれたか。別に相手からどう思われようが関係ないのが本心なのでないか。交換関係で苦労したのはどいつだよって。

 

いちおう統括的な立場としては、それはそれで良いけど、劣情はどうするんだ、穏やかな観測だったら普通に本を読んでいるのと同じ領域になるが。

 

人格会議は継続。公開は未定。

 

だいたいフィクションとして読むのが吉。

 

では、おやすみない。

 

良い夢を。