切ないなぁ

 

 

 

メール送ってなくて良かったが変なコメントをしていた。たしかに僕は内部に正確に捉えられる自分が客観的に存在するとは思っていないな。もっと液体状な感じ。液体を固体にするのが言葉か。影響されているという向きもあるが、別に影響されていても僕が僕であることは変わらんし。

 

 

そういえば、会話のループ性はもともとの機能なのかなと改めた。会話の目的として、発される言葉の意味は副次的なもので主眼は同じ時空を共有しているという実感にあるのだろうなと。肉体としての存在ではなく、意識としての共有。内的な時空は個人個人によってばらばらだから会話によって繋ぎ止める効果。

 

発話だけで反動をもたらすなんてことはカリスマ政治家とか大人気アーティストくらいなもので、影響があるとすれば、発話に伴う肉体の挙動ないし習慣の方。「料理は洗い物が終わるまで」という一番長く過ごした人の至言とか。学歴上は中卒なのにこの人やけに賢かったんだよな。当時の僕はついていけていなかった。書いていたブログもなかなか好きだった。もう書いていないなら、それはそれで良きこと。澱は凪いだかしら。

 

会話だけで相手に伝えるのはかなり難しい。同じ情報でも発言者によって信頼度が変わるし、発話ってよく喋る人ほど内的語彙で固まっているから、その語彙圏内で通じるように話さないといけないし、まずもってこの人は自分の話を聞いてくれる人だという印象を植え付けないといけない。仕事の話だが、同じこと。個人的には発話より言葉の方が自分の思考には近いが、発話でもいざという時には話せないとなと準備はしておこうと思う次第。

 

中に在る情報、思想、ものさし、を言語で現実化するのはとても難しいこと。相手に合わせて話すのであればとても雑にならざるを得ない。別に知って欲しい訳でもないから質が悪い。とはいえ、中と外の齟齬は徐々に薄らいでいる。

 

どうでも良いけど、薄氷(うすらひ)っていう言葉、形と言い読み方といい好きだ。

 

さておき。

 

休日は漫画を読んでしまう。いや、面白いし泣いたから良いのだが。面白かった方はSF作品で、ブラックホールとか時間の観念とか、「心」とは何かとか奥深い作品。人間は素朴に意識とか心を実感しているから、あまり気にされないが、自分以外の人間みたいな存在に同じく心があることをどうやって観測しているのだろう。自分の心に共鳴した人の心だけをそれとするのか、自分の心だけ気にしていればいいから自分の世界だけあれば良いのか。

 

宇宙の原初に対する解釈で、宇宙の外は無でこの宇宙をプログラミングした高次の存在が居るというのも面白い。確かに在りうる話。現実の物理学でも追い切れていない領域だし、なんかよくよく考えると変な気もするよな。意識は何次元にあるのだろう。少なくとも4次元以上はありそう。人の心の中の世界では時空なんてほとんど関係ないし、情報保存も何ギガとかでもないし。

 

泣いた漫画は、距離感測れない無口無表情な女の子が、恋愛しつつ表情豊かになってくる話。不器用なキャラってとても良きよな。

 

なんだか狂気じみてきたのでちょっと素朴に戻り。

 

料理の小説。料理下手の主人公を振った男はかなりろくでもない人物であった。好きになる条件を「料理が上手い人」なんて言うところとか、これは本命がたまたま料理上手であることを他の人に投げてみるところとか、もう絶望的である。いちおう本命と結ばれたらしいが、人で遊ぶ人は人に遊ばれるだろうなという感じ。

 

もう1人同期っぽい男性社員が出てきて、恋愛の匂いはないのだが、完全外食派なのが対照的。日本の自炊、手料理信仰ってなんなんだって苦言を呈していた。素人が作るよりチェー店の方が良いだろうとか。あと、人間を好きになるために、なにかのテレビ番組を見ているとか、人前でガツガツ食べるのが嫌だとか。睡眠と性欲は恋人にしか見せないのに、なんで食欲は公然と消費されるんだみたいなことも言っている。

 

これはこれで完結したものさしだと思う。確かに特に女性って自分が料理できないことに対する後ろめたさがあるよな。何かの当たり前信仰に支配されている気がする。僕のは逆に男子厨房に立ち入らず信仰への反発から来ているのかもしれない。当たり前に対する懐疑と試行。だから、あんまり他人(恋人さん含む)がどうのとか関係ない。

 

ここで思い出すのが直近の恋人さん。この人は恋人になる前に職場で料理を振る舞った人の中に居た。結局ご飯を作る機会はなく、居酒屋を開拓しまくったのだが、何回か料理を作ってくれたことがある。とても美味しかったし、美味しいとも言ったのだが、当人、僕から駄目出しされるかもとビクビクしている感がある。

 

そういえば、恋人になる前に振る舞った人達で僕の料理に対する姿勢談義をしていて、永田さんの恋人になる人は料理でいちいち指摘されそうで大変ですよねということを述べた人(名前もちゃんと覚えているわこいつ)に賛同していたのだった。

 

何か勝っているところがあるみたいに言うことも多々あったから、なんだかしんどそうな人だと思いつつ、僕に対して色々試行錯誤してくれたことも忘れない。ラブホテルで、深夜食堂を一緒に観たこととか。ただ、当時の僕は好きな人を探したくて、好きになれそうな人としてこの人を選び、大事にはできそうだなと思ったところに好きかどうか問われ、答えられなかった。好きでない人に好きとは言えない。大事かと問われれば、違う世界線があったのかもしれないが。

 

ごみみたいな仕事場で埃被っている人が居たというフレーズは飾っておく。

 

ともあれ、僕の行動原理とか試行が他人にも適用されて、自分ができることをできるようにさせようとか、至らないことに小言を言うみたいに評されるのはとても嫌だ。これを評するってことは当人がそういう風に他人を捉えるということなのであって、無関係な僕を巻き込まないで欲しい。僕の為に何かをやってくれるのであればどれだけ不器用でも愛しいわ。なんなら、専用のポイント解説をする。料理で言ったら、費やしてくれた時間だけで美味しい。

 

僕は自己観において良いとこどりをしていないから、できなかった自分も大事にしている。そもそも初めは誰もうまくできない。個人的な試行としては次の初めてをどうにかしてうまくできないかだが、途方もない。

 

人を好きになるために云々に戻ると、人一般はすべからく好きだと思う。ここでいう「好き」の定義は、移入するとか慮るとか、自分と同じ存在が外にも居るというくらい。切なさとかときめきではない。謎の人は特別枠。

 

こう考えていくと、交友関係を拡げられる人ってどういう神経で人を捉えているのだろうと思う。世界の一部みたいな認識なんかな。そうだろうな。自分がしたいことが具体的になかったのだが、なんとなく分かった。ちゃんとしたい。自立ではなく自律。人を捉えるキャパも自分の容量による。

 

おやすみなさい。