仕組み

 

ふらっとやってきた時にがっかりしないように最低限1本は記事を置いておきたいと思う。理由は好きだからで良いか。何故はいくらでもつけられる。ときめきとか寂しさより切なさの方が希少だ。どうやら時空の共有を目的とする感情でもなく、単なる存在に対する切なさ。たぶんくっついて寝たとしても変わらないだろうな。余計切なくなりそう。解消しようがないのがなんとも妙味でありがたや。

 

さておき。

 

家から出た5分後に財布を忘れたことに気付き急いで引き返し、いつもは乗らない電車に乗って間に合った。割とカツカツで生きていると思ったが、これくらいのマージンは残っているのかという感想。小走りするとすぐ汗が出る。そうして財布を忘れる癖は無くならない。ちょっと気を付ければ分かるはずなのだが、気を付ける優先順位が低い。

 

残業30分をこなし、30分民法の過去問と刑法の続きを読みそのままご飯を作る。今日作ったものではないが、副菜の菜の花の辛子和え(インいりこ)が滅茶苦茶美味しい。明日はほうれん草の胡麻和えインいりこでいりこは使い切れるはず。あぁ、帰り路に暗がりで坂道を眺めてみたところ、昨日収穫されていたのは土筆だった模様。もう3月だ。生えていても不思議ではない。なんだか自然不足だから何処かに行きたいところだが、花粉症になった気もして、何処が自然スポットで良い塩梅なのかも分からない。

 

どうでも良いと言うか、面白い作用なのだが、プルーストさんの失われた時を求めて。読んでいると滅茶苦茶中の思考が回る。話がよく分からなくて1巻が2周目になっている。凄い本だ。

 

料理の本は、なんだか過去のシーンが色々浮かんでくる。料理男子と花見合コンみたいなものをするのだが、現れたのがカレーマニアと干物ヲタクというラインナップで、「日常的な3食」を作れるようになってから料理男子を名乗れよと勝手な女性陣。なんか人は自分ができないことに対して高望みしつつ当たり前だと認知してしまうのだろうという世界の不可思議。から揚げにから揚げ粉を使っていてそれを言うのかとか。僕が嫌なのはこういう無自覚な人。料理をするとかできるとかよりもっと前の人格の話。自分が諦めた領域をできるのが何の苦労もなく習得されたと思ってしまう精神というか。

 

たしかに料理に限らず、成果って消費者にとっては選択肢でしかないから、どう作られたとかは無関係なことは分かる。しかし、簡単にできるのだったら自分にも作ってみたいなのは失礼極まりないこと。

 

 

ここで、昨日の僕が書いていた他人の料理をいちいち指摘する野郎がまた思い出される。僕は人を嫌うとか怒りが出るとかはほとんどないのだが、この人はほんと嫌いだった。それらしい言葉は吐いているけど、一切当人と一致していないぺらっぺらだし、仕事上の雑談すら苦痛。腰は低く喋るのだが、他人は一切見ていないだろうということが見え見え。

 

で、この人が、自分は料理を作らないからこそ、作ってくれた人に感謝できるのだと発言したこと。さも僕が僕が作っているから人に駄目出しする人物でしかないみたいに断定したことと対比して。あまりに馬鹿らしくて反論もしなかったが、これって一体何に感謝できるんだという話。自分だけに作ってくれることだとして、自分だけにどう作ってくれたことも分からないし、お金払わなくても良いとかいう水準だったらグロすぎる感謝だと思うのだが。きっと感謝できるのは最初だけで、当たり前になったら市販品の方が良いってなりそう。市販品は味覚のプロが美味しく感じさせるように制作したものだから、美味しさで一般人が太刀打ちできるものではない。

 

今僕が反論すると仮定する。この人一切人の話聞いていないからそんな無為なことはしないが、あくまで仮定。

 

まず、料理作ってくれる人っていう抽象的な捉え方自体がアウト。作るのは具体的な自分と同じ人であることが分かっていない。で、食べられることへの感謝なら市販品でも同じであり、これを具体的な個人に絞るなら、どう頑張ってくれたのかを見ようとしないといけない。例えば不器用なのに切り方を揃えてくれたとか、薄味が好きなのに自分のために濃いめにしてくれたとか、胃もたれしているって言ったことに反応して消化が良さそうなものを作ってくれたとか。これが分かるためには、ある程度は自分でやってみるのが手っ取り早い。やらないんだったら、その分考えないといけないと思われる。

 

母親にはそんな余裕はなかったのも今となっては分かる。毎日5人分作りながら公務員の仕事をこなすのであれば味とか細かいところより栄養価を選ぶしかない。家族って2人ではないからな。

 

総括、人の捉え方が雑過ぎる。

でも僕もこういう世界に生きていたのだよなぁ。1人になってやっと本気で人の所作を見て良いのだとなった。別に手抜きも良いし、ざっくりでも良いが、言葉で自分を誇大化するのはいけない。そういう人多い。

 

これって文章でも同じことで、自分が書いているから他人が文章においてどこに気を遣っているかとか丁寧にしているかが読める訳で、単に読んでいるだけであれば自分にとって美味しいかどうかだけになる。漫画は今のところ無理筋だが、今度は小説かと思われるが、自分の中に物語が生まれる気配は一切ない。小説書ける人はほんと凄い。

 

まぁ僕の文章も料理と同じで目分量で無意識に任せているところはある。どちらも一定の蓄積があるから、あとはえいやーでなんとかなる。でも人ってそういうものなのではという想像がある。じゃあえいやーで物語書けよという内部的な挙手。謎の人をテーマにしてこっそり書いて一方的に送るならアリか。たぶん何処にも公開されないし、添削とかもされない。良き発想。

 

問題なのは、僕は小説読む時にストーリーの起承転結を気にしていないところ。中の文体ばかり食べている。あぁ、そういえば、ヴェニスの商人やっと鉛の箱を選ぶ人が現われた。この箱を選ぶ人は自分の全てを差し出さないといけない(意訳)。当たり前の話で、実際に差し出すのかは別としても、そういった覚悟があるのかどうか。今風に言うとマッチングアプリみたいで面白い演劇。

 

では、狂人めいた話をば。

 

会話が時空の共有の実感のためにあるという命題は、僕の話について来られるかの一種のふるいかもしれない。少なくとも時空が1つだと思っている人には無理だ。

 

そうして、では文書としての言葉群は何を共有するのかと考えると、これこそ「心」ではと思う。現実世界において大事なことを証明するのは文書で残すという社会的ルールがあるのもここから繋がっている感じ。心の物質化という方向。ブログとかもそうなのかも。自分を物質化して残していく。厳密にいえば物質ではないが、物質と同じようにある程度永続して存在しているもの。

 

文書データは100年前とか200年前とかの時代を容易く越えるし、国境も物理的な距離も関係なく心が共有される。だとすると、今生きているところで読みつ読まれるできることの希少さはたまたま生活圏内が一致してパートナーになるより遥かに奇跡的な確率。

 

この話はまぁ良いか。

もはや好きとはあんまり関係ないし。

 

そうして、料理小説に戻ってきて。

ろくでもない人が、自分はちょっとずつ間違っているから、料理好きな人は正しさを積み重ねている感じがして好きなのだと言っていて、なるほど、これならちょっと分かると思う。

 

まさに僕もちょっとずつズレている人物である。学校時代、数学の計算問題でケアレスミスばかりしている。どこかの時代の先生が、ケアレスミスをする人は一生やり続けるという言っていたことを思い出してしまい、先生、幼気な子供にそんな呪いみたいな言葉吐いてくれるよなと思う。

 

正しいのは確かだからどうしようもないが。

内に内に自律を拡げていることによってまぁまぁマシにはなってきた。謎の人に対する距離感は基本的に間違っていると思うが、無駄に可愛い。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。