生来なんてない

 

 

 

本日はキャリアが直近の先輩が体調不良のため僕だけ1時間残業。これに対しては何も思うところはないが、予定していた「今日やらなくても良いことだが今日しようと思っていたタスク」ができなかったのは地味にダメージである。今の自分なら確実に終わらせていたし、上手くいけば今週で収まっていたものが確実に来週になる。たかが願書の提出だけだし、ほんとはこの日記時間を使えば良いかもしれないが、そういう訳にもいかない。

 

仕事をしたくないということではなく、残業の1時間よりもはるかに価値がある1時間を失ったことに対するダメージ。しかし、仕事上のピンチを自分の用事で断るまでの価値があるのかとなるとなかなか難しい。だって、自分の中の余裕を作るために予定作っているだけだし。トータルこのお人よし性で損をしているのは分かっているが、価値判断がとても甘くなるのだよな。この人間性で得したことは1度もないのではなかろうか。

 

次の改革の余地か。

 

こんな感じで今日はやや落ち気味である。ざっくぅをムニムニしたいとは思わないが、謎の人を(略)。

 

昼間はもう少しマシなことを考えていたのだが、今書くとやっぱり自分の人間性の欠落みたいなものを感じる。なんだかんだ、謎の人に読まれるのは嬉しいんだろうな、だからこそ嫌だと感じてしまう。感情に理屈はないから、しょうがないとしても感情を発散してこなかったから不具合が生じているような。

 

何が嫌かというと、僕なんて読んでいる暇があるならちゃんと自分を生きて欲しいというある意味理不尽な感情。いや、そこは人に求めるべき領域ではないだろうとほとんどの人格が総ツッコミなのだが、他人の生活とか中身みたいに眺められるような文章でもないような気がするのも確か。メタ的なところはともかくとして、読む人に思考を求めるというという感じ。何か考えざるを得なくなりそうな。何かの対話が起こりうる。いや、全然そんなこともないのかもしれない。分からん。

 

別に全流入を謎の人の痕跡としている訳でもなく、一応なんとなく分かる指標がある。ただ可能性としてはもう1人在る訳で、全部押し付けて仮定するのはいかがなものか。でも、自分ではないものは否定することができる人だろうし、変なの。変が留まることを知らない。

 

 

やれやれ。

 

「料理なんて、愛なんて」。なんだか主人公の友人が同棲相手と料理のことでもめていて、収まったのだが、僕と佐々木さんも含め、この年代って、ちょうど真ん中あたりの思想値なのだろうなと思う。古い価値観と新しい価値観のちょうど間くらい。料理は女性がするものだというものさしと、1つの家事労働でしかないというものさし。素朴な僕は明らかに後者なのだが、大学時代は全然料理作れなかったなぁ。だって家庭科以外に何にも触ったことがないし教えてもらったことがないのだから。当たり前にあるものというより不可侵領域だった。知らないで良いもの、みたいな。

 

女性も女性で大変だろうとは思うが、何も基礎がないうちに放り出されても何もできないのは決まっている。最初は食材切るだけで、味がもともと決まっている調味料で料理していた。確かに、この時はとても面倒だし、全然美味しくない。実際自由に作れだしたのは院卒業したあと底の底みたいなところで生活していたとき。晩酌のおかずを自分で作ろうかとなって色々試行錯誤した。なるべく時短でバランスよく素材が生きるみたいな。ある意味料理というカタチから離れられたからなんとかなっている。

 

カタチに固執するのは慣れていないからではないかという疑問が浮かぶ。

 

小説に戻って、同棲相手が友人に向かって、「○○ちゃん、から揚げ粉を使う人だったんだね」って失望交じりに発言したことで爆発したらしい。まぁありがち。でもその後の鬱憤発散で、自分は面倒なのに長生きして欲しいから栄養バランスを考えてやっているのに、太郎さんは料理分担の時に、すきやの牛丼を買ってくるんだって言ってるのはどうなのだろうと思った。栄養バランスほんとに考えたんか、それ一般論じゃないのか、体調加味したかとか。あんまり突き詰めてはいけない領域だが、漫然と自分がしていることの価値を高くするのはどうも。あとグロテスクだなと思ったのが、料理でもめるのは仕事の配分がおかしいから第三者が提供すれば良いよねと宣うところ。そこの舵を投げるのであれば専門家を雇えば良いが、おそらくそういう発想でもない。価値の提供が嫌ならお金をその分払わないといけない。

 

個人的にから揚げって簡単料理に含まれるのだが、簡単な割に時間がかかるし、自家製のから揚げを自分が欲さないから随分と作っていない。揚げ物しない限りキッチンペーパーも要らんしな。この枠にはハンバーグも入ってくる。簡単だが練る時間をかける機会費用をはらうつもりがない。結果的に「面倒だからしない」に現象としては還元されるが、そこまで名前の付いた料理に固執していないというだけ。

 

実際僕が毎日作っている料理は炒め物とかレンチン蒸しとかちゃんとした名前が付いていないものばかり。5分でできる簡単一品でおすすめは、ブロッコリーを切って洗って塩とほんだしひとつまみ振って、レンチン1分半。ほんと美味しい。手抜きだが、時間とか労力かける対象ではないから問題ではない。

 

まぁ、誰かが僕の為だけに作ってくれるようなことが今後あれば全力でその時間を食べさせていただこうとは思っている。

 

僕の世界に対する違和感は、僕が世界に馴染めないということではなく、自分に使う基準と世界に対する基準が違うことにあるのだろうなとなんとなくわかってきた。無理矢理合わせようとしてみた20代の暗黒期。

 

自分の素朴なものさしを自分の固有の標準としているから、自分ができるようになったことが誰にでも当たり前にできることだとはしないし、自分が育ってきた文化が正義ともしていない。素朴な当たり前に固執している人を見るにつけ、最初の文化ってかなり当人に根を張ってしまうよなと思う。こういう文脈であれば多様な具体的な人に接するのはとても大事。でも、影響されないのに、新しい世界ばかりみても何も変わらない。

 

自分の上限だと思っている世界は、単なる生活圏に居る人達の上限なのかもしれない。

少なくとも僕はそうだった。僕が生来の文化圏の思想を当たり前としたままだったら、今の僕は存在していない。

 

今のところ上限が決まらないのだよな。

 

できそうなことはなんでもやってみよう。

 

おしまい。

 

 

おやすみなさい。