無限に近い

 

 

明日髪を切るかを判断するため鏡を眺めていると、白髪の毛根が増えていた。父方の祖父が真っ白な髪だったから薄くなるのではなく白くなっていく模様。悪くない。

 

さておき。

 

酔いが深くなったときの言葉群は明確にトーンが低くなるという自己観察。自分だけの世界のような部分はあるが、この部分は誰にも気づかれないが当人の中にある世界を見ようとしている。爪とか。SNSはそういう素朴感に合っている。現実では肉とか肩書とかの壁があるし。SNSのやり取りの方が深くやっていたのだろうなと思わなくもない。

 

僕の怒気もきっとこの辺りにある。熱いものではなく、ひたすら冷たいところ。いらいらでなく本当の怒気を解放したのは1回しかないが、普段ぼんやり喋っているのにその時は淀みなく活舌良かったって後から当人に言われた。

 

そういえば、mixiで謎の人を見つけてしまったかもしれない。無意識はだいたい文体的に正しいとしているが客観情報とか、「話」を「話し」と書いているところとか、色々と疑義はあるから確定ではないが。ほんとにそうだとしたら、きゃぴきゃぴしていて良きかな。舞台は自己責任では済まないというのは「おやすみなさい」でも読んだ気がする。役者もしていたのか、見たかったな。

 

という感じで、僕の素朴な中身には、時間も空間もあまり関係ないのである。現実的な時間の調律に齟齬がなくなったのもそういうことなのだろう。絶対的なものではないと分かっているから自発的に合わせることができる。時間についての考察は長くなるから省略。

 

僕が言葉に自在性を置いているのは、ここではある程度制限なく考えることができるし、読むことができるというところ。誰かに読まれるためという部分は欠けているとしても、人の事を読んでからちゃんと交信するから、我ながらまぁまぁモテていたと思われる。まぁ匿名的な世界で匿名的でない具体的な個人として見られるのはお、とは思うはず。別に僕は自分のアクセス数増やすために生きてないし、色んな人が居たなぁ。SNSでならわりかし素朴な自分として人と接することができていた。もうあんまりする気もないが、好意を分散するくらいがちょうど良かった。何か行為があったということでもなく。

 

哲学パート。

 

理容室の人が宣伝していたコスプレの漫画を一気読みしてみたのだが、思いの外深く二次元への移入みたいなことを考えた。自分以外のキャラになりたい願望。

 

自分から離れるという意味では音楽とか演劇とか諸々のコンテンツと近しいとも言えるが、再現度が違う。僕も一回だけコスプレをしたことがある。たしか僕の誕生日パーティでルイージを着せられた。完成度が高かったらしく街を歩いていると知らないお姉さんから握手を求められ、手汗が凄いから白手袋越しで良かったなという記憶。

 

変身願望って僕にはとんとない。自己否定感はずっとあるし今も気を抜けば1人で〇にたいって呟くこともあるが、そもそも自分自体がキャラでしかないよなというスタンス。素朴な僕の感覚はあんまり現代的な思想と馴染んでいないみたいだし、人と話すときに自分を拙くするとか、何も知らないぼーっとした人物だとするのもキャラを演じている訳で。現実世界で生きること自体がキャラクター的に捉えられること。

 

これは主観的な自己観について諦めていないということになり、変化願望言っても良いかもしれない。ただ、個人的な自己観測だとずっと考えてきたことが現実化できるようになったくらいの意味で、向上心とも違う。自己探求心に近い。思考の現実化には当然文章化も含む。もともと文章にするために考えているなんてことはなく、文章は思考を写真に撮る行為と言える。そんな風に文章書いている人はあんまり見当たらないが。あぁ、なるほど、SNSで何人かに興味を持たれたのも、返信願望を持ってやってきたところに素朴な自分を見てくれる人が顕れたからなのか。

 

コスプレ漫画の主人公は二次元しか好きになれない人なのだが、なかなか闇深かく近しいものを感じた。好意的感情を向けてくれたのに裏切った母親という歴史から、他人が自分に向ける感情が信じられない→自分が一方的に好きになれる存在としての二次元に逃避。

 

こういう感情ってアーティストとか推しとかそういうのと似ている。自分が含まれない世界における一方的好意。確かに楽ではある。僕も生活とか家族とかそういう風に見ている。嬉しいなら信じられるが、好きとかそれ以上になると、ふむ。

 

そうして料理小説も同じようなフレーズが出てきた。同僚が、僕は人間を好きになりたいと思っていましたが無理なので一方的に鑑賞するだけで良い。みたいな。僕もこんなことを思っていたが、これは正しさの呪いでしかない。僕は人間大好きだから、正しくあろうとあくせくしている人はなかなか愛おしいが、個人的には正しさについては諦めた。ただ自分で在ろうとしている。わいわいした関係はもう無理だな。

 

 

で、主人公が好きな人が好きな人は一瞬付き合って、本命が帰ってきたからそちらと結婚することになった。料理は愛情っていうのはポーズなんでしょうと主人公が問うたら、家に連れ込んで、完璧な料理を振る舞って、料理好きだという証明をする。

 

こんなことができるのは好きだからに違いないってちょろい主人公は納得するのだが、僕は逆に虚構を感じた。好きだと自分に言い聞かせているようにしか見えない。できるようになったことと好きは全然違う話。努力を好きに言い換えているような。

 

まぁ確かに、「好き」という概念は簡単に因果が逆転するものだから、好きだから続けられるしできるんだって主観はてきとーに理由づける。これは時間の消費に対する錯綜で、自分が時間をかけたという主観的労力に報いるために主観的には好きだということにしている感じがある。人に対する「好き」も行動経済学で言えば、人は判断材料として最初に目に留まったものを重視するということで、その印象を守っている感はある。

 

あれ、今日の文章、自分のことを考察できない人が他人のことを考察できるわけがないというところでグロテスクな自己分解をするつもりだったのだが、どこに行った。この話はほんとに深くなった人の為に残しておくか。別に開示したい訳でもないから、放っておけば墓まで持って行く。

 

僕が自分に諦めていないというのは、言語世界で書くことを鍛えることによって自分のことが発掘されることにある。毎晩毎晩自分の為に書いた甲斐が徐々に出てきた。

 

そうそう、人は発話では分からないという説だったが、発話でもある程度分かるよなと思ってきている現実世界。何を話すのかによってどういう世界で生きているのは読める。

 

同僚が話している言葉でグロテスクだと思ったフレーズ。仕事で大変そうだと思ったけど、帰りましたというやつ。自分が良い人物アピールかよって。言葉の軽さが分かる。やはり現実世界において言葉は軽く扱われるものだろうなと。自分ができなかった(する気もない)善意を発話する意図。そんなこと発言するならまず行為を改めろと思ってしまう。いや現実とはそういうものだ、落ち着け。

 

それで言うと、謎の人の発話は無駄に個別的だと読める。

全然どうでも良い人だと思われていたとしても、言葉の扱いだけで好きだわ。

 

「好き」を因果で考えたとき、時間的な結果だと解釈する。触らなくても存在を見たいと思い続けた時間的価値。時間に労力を加味せずに。僕は自分の時間はちゃんと自分のものとして消費しているから、労力に返して欲しいとかはない。

 

だからこそ、交換的に世界を捉えてる謎の人が僕を見続ける意味が分からない。

 

イレギュラーは喜ばしいが、やめとけよとは思う。

 

おやすみなさい、